中世鳥取城


1.西坂
 現状は、鳥取県立博物館の北側より案内に従いトラロープを頼りの登りになります。宮部氏統治の時までの大手道跡、H19年になって異説が発表された。途中瓦の散乱を見る記録には揚羽の瓦もあるので17世紀まで使われたのか
 途中にある鏡ケ平は、西坂と2.3.16が集中する要の郭で中世鳥取城の最大防衛ポイントのひとつだ。ここを落とされると本丸は非常に危ない状況に陥る。
2.湯所神社上郭群(仮称)
 湯所神社右手より山中に入りますが、遊歩道などありません。読図能力の無い方は絶対に進入しないでください。
最初は南下して大きく東に回りこむと北東に伸びる細尾根があります。笹竹に覆われいますが、その尾根筋を登ると、蟹座遺構を連想させるメンヒル(私の背程度)が在ります。多少の起伏はありますが、広大な郭です。その上の尾根筋郭群は右に松の丸を見ます。移動可能です。更に登ると西坂の虎ロープに出会います。
3.木山観音堂上郭群(仮称)
 重厚な郭群が出迎えてくれる岩盤を砕いた岸切が印象的で、岩盤をくり貫いた堀切もあります。
 鳥取城の中でも2の郭群と併せて非常に強固な防衛ラインに為っています。
4.北坂(仮称)兵糧搬入ルート
 円護寺隋道の上遊歩道の途中より山中に分け入ります。その先遊歩道などありません。読図能力の無い方は絶対に進入しないでください。ロープウェーの橋脚までは何とかなるかも知れませんが、その先が急です。滑落したら確実に死ねます。急登ですが、防衛ラインとしては稚拙です。
5.地獄谷西砦(仮称)
 外神林道より入りますが、遊歩道などありません。読図能力の無い方は絶対に進入しないでください。特に上部は落石の危険が常時伴い危険です。ここはロープウェーの橋脚までが危険です。
6.外神砦
 上は看板があり簡単に到達します。外神下側の遺構は林道よりすぐですが、外神砦までは、登れていません。読図能力の無い方は絶対に進入しないでください。ここの虎口は理解できません、近世だと思うのですが。
7.外神林道口砦(仮称)
 此処も、遊歩道より直ぐです。猪に遭遇するかもしれません、危険ですので侵入される方は自己責任でどうぞ。
8.東坂搦手ルート
山中鹿之助が攻め切れなかった外神がある。石畳の残る美しい道。
9.寺坂
 遊歩道沿い左右に広がっていますが深入りすると居場所がわからなくなります。自分が何処にいるか確実に把握できない方は絶対に侵入しないでください。
10.寺坂尾根砦(仮称)
 東坂硝煙蔵跡より進入しますが、遊歩道などありません。読図能力の無い方は絶対に進入しないでください。拙の印象では宗教施設への登板路の様な印象を受けます。手間要害の登板路に似た印象を受けています。途中堀切と思う物は門跡かもしれません。
11.南坂(仮称)
 寺坂尾根の一つ南側の尾根ですが、遊歩道などありません。読図能力の無い方は絶対に進入しないでください。ここも城郭遺構としては疑問です。上の旧ロープウエー駅舎付近の郭は城の遺構だと思いますが、尾根が向きを変えてからの遺構は私にとっては甚だ疑問符を持って眺めています。
12.山頂北郭群(仮称)天守台北側
 ロープウェーの橋脚跡や井戸跡無数の瓦片などが荒涼とした気持ちにさせる場所、道などありません、危険ですので侵入される方は自己責任でどうぞ。 中世山城の遺構がプンプンとします。
13.山頂南郭群(仮称)
 中坂稲荷の上に山頂ノ丸直下まで広がる遺構群、籠城部隊の駐屯地か、道などありません、危険ですので侵入される方は自己責任でどうぞ。(私はここで迷子になりGPS頼りに山頂に戻りました。)
14.山頂ノ丸・出丸他
 中世山城の遺構は近世への改変で解りません。東側のロープウェー駅舎跡付近の大振りな郭群を見ると、鳥取城の大きかったことが想像できます。
 現在の山頂ノ丸は通常の鳥取城として堪能できます、出丸は草刈されました、西坂登れば見学できます。本丸に設置者不明の進入禁止看板があります。業務威力妨害で同時に文化財を破壊するという愚行をしています。ただ本当に危険ですので侵入される方は自己責任でどうぞ。
15.中坂
 登りながら左に幾つも郭が見えます。石垣が築かれ、近世は番所があった場所。進入しても安全ではないかも自己責任でどうぞ。右には13の郭群が見え隠れします。遊歩道が整備され、楽しく上がれます。が日本国内の山城の中でもきつい登りの一つです。お城めぐりで鳥取にこられた方のメールにこの道のきつさと山頂より砂丘と海の美しさを皆さん書かれています。私は殆どこの道使いません。
16.太鼓ケ平郭群(仮称)
 二の丸三階櫓の真北標高90mより140mにかけて広がる郭群、非常に困難な登坂です、侵入しないほうが身のためです、行かれる方は自己責任でどうぞ
17.天球丸東郭群
 H19現在天球丸が立ち入り禁止なので、今は東坂の途中より藪に入るしか侵入できない場所ですが、でかい竪堀と、掘削の甘い郭群なかなか悩ましい遺構です。

鳥取城についてあれこれ

鳥取城の成立
大永の五月崩れで、伯耆を支配下とした尼子氏は因幡山名と組し、但馬山名は大内氏、毛利氏と組して対立していた。
・天文十二年山名祐豊は豊後の上山加賀守に宛てた書状で「因州之儀、布施一城候間、近日可有一途候、、、」とあり、因幡山名は布施の城一つしかないと云っている。
・天文十三年「陰徳記」に尼子晴久因幡侵攻の大崎城を獲った後、鳥取の山下を放火した後、鳥取城若しく私都城を攻めようかと有り、鳥取は山下に城下を持ち布施の抵抗勢力である。
・よってその時の城主は不明だが、鳥取城は天文十三年以前に但馬山名氏の布施天神山城に対する附城として成立したと思われる。(陰徳記内容の信憑性に問題があるのは承知しています。最近鳥取市教育委員会資料に山名氏出城として築かれたと記述を良く見ますが、但馬、因幡、美作、伯耆等色々あり其々争っています。意味不明な資料を配布していると思うのは私だけでしょうか)

鳥取城の歴史
・天文十四年四月十六日山名誠通の中村伊豆守宛て文書で「新山定番之儀、烏取一途之間、、、縦為石川申分従雲州雖被申候、、」とあり、鳥取城攻撃の間、中村伊豆に新山城定番を申し付けており、天文十四年山名誠通烏取城築城と書いた民談記は信じられない。尚且雲州が何を言ってこようとあり、山名誠通は尼子と通じたことも伺い知れる。 よって天文十三年に尼子は布施天神山城を攻めずに鳥取城を攻めようとしたのだ。
・天文十五年尼子と通じた因幡山名誠通は尼子勢力を脅威と感じた但馬山名氏に滅ぼされ、
・天文十六年山名豊定が但馬より天神山に入る。が其の支配は弱く、旧因幡山名の家臣団を直接統制できず、誠通の遺子を介して所領の発給を実施している。このころ若狭武田氏の庶子豊前守が鳥取城主になる。
・その後永禄六年まで、但馬山名の勢力、尼子と結ぶ勢力、独立した国人衆との三つ巴の乱世を迎える。
・豊前守の子山城守武田高信が鳥取城主になるが、毛利と結び反意を天神山にもち、高信は永禄六年(一五六三)但馬山名氏を一時追放する。
・永禄七年山名祐豊は因幡侵攻するが高信に敗れる。毛利元就書状によるとこの年初めて鉄砲が高信側に送られている。
・永禄十二年尼子残党と称する尼子勝久、山中鹿助等出雲に入り、同じ頃山名豊国が因幡に侵攻してくる。
・元亀二年尼子残党敗北、毛利の圧力が直接但馬まで来ることになり、山名豊国が毛利と和睦。毛利党だった武田高信の地位が怪しくなる。
・毛利に敗北した尼子残党と称する尼子勝久、山中鹿助、亀井新十郎等は但馬経由で浦富の桐山に進行、暴虐な搾取に鳥取周辺は遭遇する。
・彼の泥棒集団、今度は毛利勢力の排除を狙う但馬山名の豊国と組み高信の出城甑山城を摂る。天正元年八月甑山城奪回に向かった高信は逆に敗退、同九月高信毛利の依頼で備前出陣。
・天正元年豊国、山中等因幡侵攻を激しくする。戦況は高信方が不利で、毛利氏の鳥取在番久芳賢直に鳥取岩井両城死守を小早川隆景が指示している。が意に反し伯耆に撤退。意外な事態の進行に毛利は信長の支援を疑い問い合わせるが、山中を支援はしていない。織田は但馬に侵攻すると回答している。尼子の残党に因幡が平定されそうになったため、毛利は吉川元治の派遣を決めたが、鳥取城は元治の援軍到着前に和睦により天正元年九月二十七日山中鹿之助に明け渡された。城主武田高信は鵯尾城に入る。十月元治が因幡に入ると豊国は降伏し毛利に人質を差出。城将は毛利入道浄意(私都毛利氏)があたった。因幡平定を毛利は織田に伝え、織田も但馬出兵の事を返事している。
天正二年再度因幡に侵攻した尼子残党は、諸城を落とし、ついに、九月二十二日毛利入道浄意の守る鳥取城を落とした。尼子残党が入るが、豊国と交渉結果豊国が城主となる。
・天正三年豊国、尼子残党退治のため毛利・山名和睦の仲介をする。和睦が成立すると、元治侵攻を恐れた尼子残党は私都城と若桜鬼ケ城に入り鳥取城撤退する。
・天正八年五月二十一日羽柴秀吉鳥取城責め開始、城下を焼き払い、鹿野城を落城させ人質を奪う。其のとき播磨の宇野氏が秀吉に抗戦、付城を二三町毎に全部で十五儲け、六月五日播磨に転戦。再度九月鳥取入りする。このとき息女を磔されそうになり豊国は降伏する。豊国の娘はこのとき秀吉の妾となる。毛利来鳥の報を聞き秀吉は鳥取を逃げ出す。元治が同九月二十一日鳥取城を豊国より受け取る。四月に渡る籠城で、戦意喪失していたのだ。毛利の城番は牛尾重春。この時、一部国人衆は帰農する。豊国は早くても天正九年四月半ばまでは鳥取にいた。毛利の因幡決戦決意の確認のため因幡国人衆は吉川元治親族の鳥取在番を望む。
・天正九年三月十八日鳥取入りした経家は、織田の再侵攻に対して、篭城を決意毛利軍は鳥取城で篭城戦を繰り広げた。その時の最大の功労者であった宮部継潤が鳥取城主となる。
・天正九年
篭城した武将 吉川経家 森下道祐 中村炊右 今田弥次郎 朝枝加賀 山縣筑後 森脇内蔵太夫 野田左衛門尉 武永四郎兵衛 井下新兵衛 井尻又右衛門 高助右衛門  長和三郎右衛門 大草玄藩(益田市大草城主) 長岡信濃 杉原播磨盛茂内 横山弥太郎 南方半助
切腹した武将 吉川経家 その小姓二人 森下道祐 中村炊右

 いくつか疑問点が解決していない、
其の一、山名豊国はいつまで鳥取城主だったのか 天正9年4月13日鳥取より、姫路の秀吉に使者を送り、其の使者が私都毛利氏の配下に切られている。よって経家と重なって鳥取にいて、天正9年四月半ばまでは鳥取の体制を把握していた。
其の二、経家の切腹したのは何処か 本当に真教寺だったのか 真教寺である当時の記録が全く無く疑わしい。
其の三、経家に殉死したのは何人か、史書により記述が違う。二人だと思うのだが、、、

 思うに、右前丸の上に屋敷群があったのでは?石垣は殆ど用いられず、土の郭が主流か山頂部文の一部のみが現在と重なる。もっと多くの郭らしきものがあるが、多くの人が篭城しており、各所に掘削地があるのは当然のこと。石垣に関しては、豊国と同じ山名系、同時期有子山の例もあり推測の域を出ない。難攻不落というが、小谷城の、市救出劇のルートの事を考えると、何とかなりそうな気がするのは私だけであろうか、東と北に弱い城だと思う。月山富田城も訪ねてみたが、何処が難攻なのか?鳥取と富田両方攻めて両方落とせない山中鹿之助の武名を疑ってしまう。