
基点を鹿野そば道場とします。車を駐車させていただきますので仕上げはここでそば食べましょう。
鹿野の城下町は鳥取大震災で殆どの家屋が倒壊古い建物は数えるほどしかありません。拙にとってこの城下町の見るべきものは地上にある建物ではありません、町の区画と道の太さとそのライン取りにあります。江戸期の大名の城下町としての町割ではなく大変古風な町割で、安土桃山期の城下町の様子を残していると考えています。亀井武蔵守がこの町割を残したのは、関ケ原の戦後処理の経験だと思っています。彼は鳥取城受け取りのとき鳥取城下を焼き払っています。町割をどんなに鉄砲を使用した市街戦向きに仕上げても燃やしてしまえば無駄だと彼は実感して自分の城下町に手を入れるのを止めたのでしょう。
そば道場前の信号のある交差点を南下、二つ目の橋の所で左に進んで城下町に入ります。


1.力士塚
最初の大工町は商人エリアで大八車の路上駐車が前提での路の広さが確保されています。土手より坂を下りながら左手に力士の塚があります。
そんなに古いものではなく明治の力士です。
2.四当たりの四辻
この道を突き当たり山根町に入っていきます。ここに四当たりの四辻があります。市街戦のとき相手を真っ直ぐに移動させない古風な町割です。

拙の推測では正面に門があったはず。
3.狭い道筋
右に進むと道が細くなります突き当りを左へ、道が大変狭く大挙して人が動くことが出来ません。四当たりの四辻に両側を囲まれています。大変重要な施設があったか重要な人物の住まいがあった場所と想像できます。突き当りを左に、道なりにすすみ次の辻を左に突き当りが幸盛寺です。

4.幸盛寺
幸盛寺は天正八年に杉原盛重が鹿野城を攻めたとき、土居を構えた場所にあります。本堂の後ろのモッコリ高くなり坊さんの墓が並んでる場所が土居の跡です。本堂南西隅に、尼子十勇士秋上伊織介の墓があります。
額は鴻池氏が揮毫
山中幸盛と一緒に備中松山で打たれた13人の墓
尼子十勇秋上伊織介の墓 彼についての詳細はこちら 墓についてはこちら
誰かが壊したのか
歴代和尚の墓の部分が盛り上がっているのが杉原土居と呼ばれる、毛利の武将杉原盛重が亀井武蔵守を攻めたときの陣跡の土塁。
5.狭い道筋 町屋
幸盛寺を北へ突っ切ると細い路地に出ます。この当たりは、町屋が並んでいました。下町の風情を感じます。

6.魚類慰霊之碑
そこを右(東)へ突き当たりを右(南)に次の小道を左(東へ)道なりに進んで少し広い道に出ます更に東に進み吾妻橋を渡り紺屋町に入ります。
その途中に鯉エキスの工場があり。魚類慰霊之碑がありました。最近のものですが珍しいので。

7.浄徳寺庭
暫く進むと右に浄徳寺左に妙光寺があります。浄徳寺裏の庭園は非常に紅葉が美しいです。一声かけてもし見学できればラッキーです。その先の妙光寺は宍粟の領主だった池田輝澄の関係する寺です。

8.金比羅
浄徳寺駐車場の西の通りを南へ途中観世音寺があります。不思議な空間が広がっていますが、見なかったことにして(ヲイ!)左奥に金比羅が祀られています。朱印状貿易をした亀井武蔵守が航海の安全祈って建立したのでしょうか。拙の推測ですがこの金比羅と南側の小丘は合わせて一つの中世山城と考えられます。

9.興国寺跡
更に南へ突き当たりを右に小屋根橋を渡ります。再度南下します。前方にもっこりした林が見えます。興国寺跡です。興国寺は池田光政の家臣、日置(ひきと読みます)豊前守が建立した寺で、池田輝政(興国院)を弔うため建立しました。日置豊前守は池田家の家臣で輝政に仕えていたときは三木城を預かり。三木では、勝入寺を建立して長久手で戦死した恒興を弔い、その供養塔が残っています。備前では御津を預かりました。御津も散策しましたが、池田を弔う寺を見つけていません。
興国寺跡に二つの墓が残されています、東側にあるのが池田輝澄の夫人天正院の墓です。天正院の詳細はこちら


10.住吉神社・小式部内侍産湯の井戸
更に南下して、水谷橋を東に山の根に突き当たり南側に住吉神社があります。住吉神社は隠れた桜の名所です。伝説によると、平安時代の歌人和泉式部がお産のため歌の神様として知られる住吉大明神の近くに移り住み、一七日の参拝を続け満願の日に無事女児(後の小式部内侍・有名な歌人)を出産したといわれています。


11.鹿野城
水谷橋にもどり北上次を左(西)に次の辻を右(北)へ、観音様のある場所の堀が薬研堀で鹿野城の堀で現存する石垣が垣間見えます。但し薬研は埋まって想像できません。土橋も昔の風情が残ります。
北上して、学校裏手より土橋を渡り、学校の南を迂回する遊歩道を通ります。赤い橋を渡ると本丸枡形跡、学校は二の丸にあります。この学校建設のため、何故か堀の石垣をまがい物にしてしまいました。
二の丸に戻り、西へ進みます。二の丸を囲んだ土塁跡が一部残っています。外はすべて取っ払われました。学校造成がいかに酷いものだったかを実感できる場所です。






12.熊谷道伸・子貞の碑
更に進んだ、橋の袂に熊谷道伸・子貞の碑があります。鹿野・郷校「修道館」を設立した熊谷道伸は、寛政3年29歳で大阪に出て懐徳堂に学んだ、途中病気になり、二年後には郷里に帰り健康回復後は家業の庄屋に専念した。彼の学徳を慕い近隣の若者が集まったため「修道館」を設立儒学を教えたが文化13年死去。その子供の子貞は、父の死後文政13年、最初大阪で3年、泊園書院の藤沢東がいに四年学び、帰国後「修道館」を再開した。
平たく言うと、明治維新の原動力となる学問を民間レベルで具現化した先駆者がこの鹿野にいたということ。ちなみ修道館はどこにあったのか地元の方十人以上に聞きましたが解りませんでした。残念なことです。

最後の仕上げに蕎麦食べに行きます。是非蕎麦好きな人は実験して欲しい、鳥取で旨いと評判の米里公民館のちかくにある「そばきりたかや」と同日に食べ比べて欲しい。鹿野そば道場のそば意外と旨いんです。繊細さでは鹿野の方がかなり上行ってると思う。ちなみに旨いまずいは別として私は鳥府若桜街道吾妻そばが好きです。
車で移動の番外編
・加知弥神社
そば道場前の県道を西に橋を渡って北上します。約1.8kmで左に加知弥神社です。神社前の参道は細いので一歩手前の鷲峰建設角を西に入って、勝谷川を渡ってすぐを右折神社前に駐車可能です。
永録8年には武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8年には吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。社伝によると天正年中豊臣秀吉は防己尾城落城のとき社領を寄進したとのことである。また元和9年には池田光政が社殿を修理し、寛永10年国主池田光仲はあらためて社領39石6斗9升3合を寄進した。ちなみに現在の社殿は文政十三年築です。

・亀井武蔵守の墓
車に戻って西へ山の根でを南に進路をとると道が合流する辺りに五輪群があります。この辺りの広くて人様に迷惑かけない場所に路上駐車します。 ここから右斜め上に登って行くと亀井武蔵守の墓があります。このお墓は拝み墓だか、埋葬墓は別にあり、おめかけさんと共に埋められているそうです。江戸初期の大名墓の美しさは一見の価値があると思う。因みにこの墓があるのは田仲という集落で、住民の殆ど田中さんです。

・譲傳寺
先ほどの五輪群に戻ります。拙はこの五輪群は殉死者の墓ではと思っていますが、年代が江戸初期より前の様式に思えます。
県道に戻り南下してローソンの角を右折、歩道のある通りを道成に進みます。鹿野温泉病院で一時停止して、通りを直進次の公園角を右折すると正面に駐車場完備の譲傳寺です。境内に入っていくと右手に案内看板があります。譲傳寺には亀井の出地実父湯氏の墓、亀井の義父の墓=山中鹿之助の義父、松平玄蕃頭忠清の墓等があり、裏山は城跡です。境内右手の尾根上に主要なお墓はあります。松平忠清は池田輝政の次に三河吉田城に入った松平家清の息子で、亀井武蔵守茲矩の娘婿。家が無嫡廃家となったため出戻った娘が建立した墓と考えられる。外にも藤木城主の墓もあるが、寺の創建時期を考えると元和の一国一城令まで藤木城は維持され、亀井の家臣だったことになる。等と考えながらお参りさせて頂きました。


脈絡無く、思い入れが鳥府に比べて殆ど無いので雑な案内になってしまいました。ここを訪ねておけ等ありましたらご指摘ください。個人的思い入れで絶対に紹介したくない場所と出来ない場所があります。それに該当する時は悪しからずです。これで今回の鹿野歴史探訪は終了します。
鹿野データ色々
*宿泊するなら
国民宿舎「山紫苑」旧館宿泊1泊2食で7000円をお勧めします。24時間入浴可能、露天は源泉かけ流し。
料理のボリュームはこの価格で十分です。酒飲みは余すぐらいです。私の個人的趣味で旧館1階端の二室のどちらかを勧めます、但し夏場は蛙の声の大合唱つきです。冬は最高に庭がいいです。
もう一つの値段だけが高い民間施設は、拙は絶対お勧め出来ません。
*地元公衆浴場
営業時間不明看板など一切無し、建物に透明な料金ボックスあり。料金200円
*食事するなら
夢こみちは地元食材を使った弁当が手軽だが昼のみ水曜休み、男性にはボリュームが足りないかもしれません。
そば道場とそば処食堂は、同じ経営で同じ手打ちの10割そばが食べれる。そば道場のほうが落ち着いて食事できる。第一木曜日が休み自分で打った蕎麦は旨いです、是非そば道場でそばうち体験お勧めします。
あすなろはボリューム満点の定食が安い木曜休み、義父母ご用達です。
アイガーは何といっても日本酒鷹勇がおいてある、私はここで夕食とって山紫苑に宿泊を年二度はします。火曜定休
豊紀和のホルソバも捨てがたい、、
*参考文献等 因幡志 鹿野町史 鹿野大図鑑
*鹿野の統治者
志加奴氏天文12年まで→尼子氏?→山名氏天正三年まで→毛利氏天正八年まで→亀井氏→日置氏→池田氏
尼子と毛利の統治の現地で確認できる証拠を知らない。