磯部氏3千石の城下町として天正9年より、慶長5年まで繁栄した用瀬は、江戸時代は宿場町として利用された。磯部氏の城下町の面影を探りながら町を探訪してみました。起点は鳥取市用瀬町総合支所です。

 拙の景石城城下の考えは、景石城下西に開けた尾根に、根小屋(磯部氏館)を設けて、階段状に重臣達の屋敷郡、その下に武家屋敷郡で最後の現在の宿場町部分に町屋が形成され、南の守りは寺院郡、北の守りは現在番所跡の狭猥な地形。西は千代川だと思う。小さな小さな城下町だったことが伺えます。これは、今まで小字御屋敷に根小屋があったという説と一線を画す。拙は小字下城に磯辺の館があったと推論する。御屋敷は谷深く、光が当たらない牢屋に向いた土地です。


1.城下町の風情を残す四辻
 支所の駐車場西側中央に、歌碑があり、そこより北北西へと下る細い階段を下ると水路があり、更に下っていくと、城下町の風情を残す。一度向きを変えないと曲がれない道などがあります。拙は、此処より東に武家屋敷が広がっていたのではと想像します。


2.番所跡
少し西に進み徳永酒店の角を右に進んで踏み切りを超えると、番所跡があります。背後に山が迫り、前面に千代川交通の要所で、番所を設置するならここという場所です。人の往来はここで必ずチェックされました。関門が設けられ、役人(武士でないことが多く、地元の村役たちが交代で務めたはずだ。)が常駐した。パスポート発行機能を請負例えば何処に何それで出かけると地元の人間が申し出れば、判子を押してそれを証明する文書を発行した。よそ者はその文書を持たぬとお役人さんの出番となる。


3.芭蕉の句碑 「夏来てもただ一つの葉の一つかな」
番所前に芭蕉の句碑がある、広報用瀬によると「県下最古の句碑で寛政9年句碑建立。「鳥取俳人史」によると、芭蕉の死の枕辺に集まった弟子の中に因幡出身の松岡太魚(たいぎょ)のいたことが記されている。また荒尾但馬の家臣桃寿軒方雪(とうじゅけんほうせつ)の「米子紀行」の文中によると、藩主と側近には江戸中期に連歌・俳諧が普及し、庶民に浸透したのは宝暦・明和(1751〜1771)の頃とある。やがて安永・天明(1772〜1788)の頃薫風復帰の風潮により全国的に建碑が行われた。芭蕉句碑もその一つと考えられている。」とのこと。鳥取での俳句の広がりが感じ取られる場所だ。


4.瀬戸川
 来た道を少し戻り、五区公民館を右手川沿いに入ります。川沿いを南下します昔は裏のことを「セド」と言い、裏を流れる川を「セドの川」「セド川」となったそうだ。江戸時代用瀬の町は、上方街道の宿場町とし、また月に六回市が開かれ、郡内の交易の場として人が集まり栄えるにつれ、川を整備し生活用水として使われるようになった。この町の魅力はなんと言っても流れの有る生活だと思うし、その日常が大変美しい。


5.イトバ
 飲料水・洗濯水・風呂水・米を研ぐのに「イトバ」が各所にあった。又川にはアヒルが飼われていた。夜が明けると門を開けて川に出し、夕方になると住家に戻ってくる。鶏は餌をやらないといけないが、アヒルは食べ物が流れるので、それを餌にしていた。因伯紀陽にイトバの解説として船着場というのがあった。これだけの橋が渡された水路を考えると船の往来の困難さが伺えるし理解できない。何方かご教示ください。


6.水車跡
川沿いに水車を並べて利用していたが、現在水車自体は一つも残っていない。


7.カワラボトケ
 瀬戸川沿に供えてある花を「カワラボトケ」と言い、水子の供養のため竹筒に花を活けていた。


8.石橋
 佐治往還の跡に唯一の石橋が残る。ここにもカワラボトケが


9.お茶屋本陣
池田の三大名が使用した休憩施設。最初の宿泊は智頭次は平福、で休憩場所がここなら、次の休憩場所はと調べたら国道373の峠鳥取県側にありました。


10.シミズイド
瀬戸川沿いの家屋は川の恩恵に授かった生活を送った、その上の山側でも、コンコンと湧き出る泉の恩恵を得ていた。


11.寺院群
お寺が並んでいます。石垣と枝垂桜が素晴しい大善寺、次の正覚寺境内には「赤いたすきにしぼりの浴衣 さす手ひく手に月が出る」 の碑があります、これは石城の落城にまつわる物語を秘めた鎮魂の踊りといわれるはねそ踊りの歌です。次に日因上人(にちいん)句碑がある円教院、と寺が並ぶ、感覚的には小いさな備中松山の風情でこれ事体が出城の役割を果たす。


12.東井神社
東井神社の社殿は因州池田家の学校尚徳館にあった廟を移築してあり、数少ない池田家の江戸時代の建築物だ。感慨一入の拙である。


さて、次は数々の伝説を残す三角山を目指します。

参考文献
因幡史、雪窓夜話、広報用瀬