
鳥取県立博物館のデジタルミュージアム鳥取城下地図の範囲を鳥府と呼ぶことにします
幸田屋お勧めの鳥府歴史散歩コースを紹介します
鳥取駅発着の半日歴史散歩コース、お城は入れていません。本当は地元の方に歩いて欲しいコースです。
私の足でのんびり歩いて五時間でした。
途中、トイレは弥生公園、おおちだに公園、久松公園、わらぺ館、景福寺とありました。
コンビニは最後のほうに一つ、飲食店は殆ど開いていませんでした。

駅前花時計を見ながら若桜街道を北上します、ビルが増えて見づらいですが、鳥府では南北に走る道から城山がみえます。
小さな頃から、山を見て育った私は、大学で東京に、山が見えない暮らしに慣れまでには時間が必要でした。
1.深尾角馬の墓
袋川に架かる若桜橋の手前、土手の一本南側のとおりを東へ、交番の裏に本浄寺があります。門をくぐり閉じていたら右側より寺に入り正面壁際に深尾角馬の墓があります。墓の数が少ないので直ぐわかると思います。
深尾角馬をテーマに幾つかの小説が書かれています、司馬遼太郎は侍は怖いという短編を残しています。
詳細は拙ページ因幡の墓標中 本浄寺のページに
2.鵜殿家墓所
更に東へ進み、次の角を北へ、土手に出て対岸と高さを比べてみてください、こちら側が若干低いのがわかるはずです。城下町を江戸時代城下町を水害より守るための知恵です。更に、東に進み、次の橋を北に渡り、土手を東へ、次の橋を北に曲がり坂を下ると左に、妙要寺があり、ここには家老鵜殿の墓があります。明治維新廃藩時点で、藩主に自分の屋敷を明け渡して、お金を献上した忠臣鵜殿家、義を伝える美しい墓所です。
鵜殿墓所は岩美にもあります こっちの写真のほうがいい感じです。
3.櫻田作一郎墓
妙要寺の駐車場に向かい合って、本願寺があります。本願寺は鳥取城主中務卿法院宮部善祥坊継潤が建立した寺です。ここは、ワンカップを用意しましょう。紙パックでもいいです。明治の犯罪者の墓が山門をくぐり左斜め前のコンクリートブロックの中にあります。願い事をかなえてくれるというお墓です。お参りが済んだらご相伴に預かるのが供養だと思います。
詳細は本願寺の項
4.鎌倉十七墓
南に土手まで戻り土手を東へ、道なりに直進信号を渡り正面が広徳寺です。家老池田の菩提寺です。本堂の戸に素晴しい揚羽蝶の彫刻が施してあります。また、ここは歴史上確認されている最も古い力士の墓があります。現在でも多くの力士が参拝されています。
詳細は広徳寺の項
5.増井熊太墓
広徳寺の北側が観音院です。庭園が美しいお寺です、私庭に興味なく三十年前に友人と市内散策した時訪ねて以来拝観していません。雨の日でぬれた緑と石が美しかった記憶があります。ここの墓地も眺めが良く、歴史上の重要人物が眠っています。そんな一人に尊王の志士として叙位された増井熊太がいます。
詳細は観音院の項
6.屋形船
更に北へ、少し太い通りを北東へ、洋館が建っていますが、グランドアパートいい、大戦後占領下で接収され、米軍さんが暮らしていたそうです。現在は民間のアパートです。その先左手におおちだに公園がありその中に屋形船があります、かつて袋川に浮かび大人の遊び場だった船。風情があります。
アルミサッシュがいただけない、、、、
7.鳥取東照宮の、灯篭と石垣と彫刻
更に進むと旧鳥取東照宮です。本殿の彫刻は日光東照宮で有名な彫刻を彫った左甚五郎が彫ったと伝わっています。この、神社の灯篭に彫られた名前は池田家家老たちです。荒尾、和田、津田、鵜殿、乾、池田(栗・下・山)、福田、安養寺、菅、矢野と戦国時代を池田家と戦い抜いた歴戦の勇士たちの名が並んでいます。また本殿の建つ場所の石垣は切込ハギという手法で築かれ、江戸時代初期の職人技を今に伝えます。


8.芳心寺
南におおちだに公園まで戻り、山の根を東に進むと芳心寺があります。ここには、池田光仲の妻の供養塔があります。実は、このお寺の一部のお墓は秀吉の鳥取城攻時の付城の郭を利用して立てられています。光仲の妻は一度も鳥府に来た事がありません。本当の墓は、東京の池上にあります。
鳥府の供養塔 江戸の案内はこちら
9.興禅寺
芳心寺を西へ、突き当りを北に曲がるとお菓子屋の先に興善寺があります。ここは藩主の菩提寺で、多くの家老達の菩提寺でもあり、歩くたびに新たな発見をしています。
取り敢えず解っている墓はこちら
10.鉄砲洲家陣屋(西館二万石)
南下して、道を右折すると鳥取県警本部があり次の建物あたりが、鳥府に住んでいた大名鉄砲洲家が住んでいた陣屋跡です、大名には大別して城を持っていい人と、城を持てない人に分かれていました。鉄砲洲家は城を持てない大名だったので陣屋に住んでいました。全てのお殿様が城を持つのではなく限られたごく一部の大名が城を持っていました。ついでに書きますが、一人の大名が二つの城を持つことを許されることもありました。と因州池田の殿様は鳥取と米子と二つの城を持っていました。一部に荒尾が米子城主の記述を読むことがありますが、誤りです。城主は池田です。
詳細はこちら
11.三田家陣屋(東館三万石)
10の向かい県知事公舎辺りにあったのが三田家陣屋です。
詳細はこちら
12.吉川経家公像
鉄砲洲家の先に箕浦家武家門が見えます、家老格より劣りますが、中級武士の門構えです。興味ある方は県庁突っ切って見学してください。東に進み、保育園の次にあるのが、尚徳錬武館ここは池田家の剣道練習場でした。道を挟んで鳥取市武道館です。拙はこの鳥取市武道館で剣道を学びました。突き当りを南へ、次の角を西に進むと、お堀が見えてきます。堀の手前に吉川経家公像が立っています。引退した三遊亭円楽が、経家公の末梢でこのブロンズ像のモデルです。
吉川経家の解説 拙の経家公のページ
13.仁風閣
更に西に進み、お堀を眺めながら、大手門で北へ同級生が部活の指導に来ていて「おう**」と呼んだら子供が一斉に「今日は!」恥ずかしかった。裏から仁風閣に入ります。拙のお勧めはガラスです。窓ガラスとしてはめ込まれた当初のガラスは決して均一ではない、微妙に屈折した光線を通すガラス。当時の職人さんの息吹を感じます。
詳しくは鳥取市文化財団のページへ
14.鳥取県立博物館
仁風閣の表に回って、門を出ると左斜め前に鳥取県立博物館があります。幾度訪れたか解らない、結構通っています。一応県民の建物となっています、道州制が施行されたら無くなるのでしょうか。ここのセザンヌという食堂のメニューにビールがあるので、城山から降りて汗を拭きながら一杯、最高です。お勧めは館外展示で、ぐるっと回ると楽しいです。
鳥取県立博物館のページ
15.福田丹波守邸
博物館を出て、南へお堀で東に進んで、次の角を南へ、久松小学校の前を通ります。隣の裁判所前に回りこんで智頭街道を南下します。東側角の小さなビルの隣に門があります。この先にあるのが福田丹波守邸です。個人宅なので垣間見ることしか出来ませんが大変風情ある建物です。写真は掲載しません。決して不法侵入しないように、ご迷惑をおかけしない様にお願いします。
16.柳蔵
更に南下すると、次の角に鳥取検察庁があります。その向かいの読売新聞付近に、江戸の始め正木大善が幽閉されていたことがあります。さらに進むと右にわらべ館があります。旧の鳥取県立図書館の外観を一部残していますが、この図書館に小学校のとき良く通いました。その南側の通りを右に曲がって西に進みます。左手に更地ですが、友人宅や酒造会館、そして10年ほど前に家を建て替えとき半年ほど暮らした家がありました。突き当たりが醇風小学校です。京都にも旧本国寺付近に醇風小学校があってビックリした記憶があります。さて、この小学校付近に因州池田家の米蔵がありました。城下町絵図を見ると火避け地として、堀に囲まれ鳥府史を見ると更に土塁に囲まれていました。それでも幾度も火災の被害にあっています。

17.薬研堀
更に南下します。左に追い回しと通りの案内があり、もう一つ南の細い通りがかつての薬研堀で運河として利用されていました。昭和初期まで、ロジスティクのツールといえば大八車と船でした。

18.本町通りと稲荷
更に南に片原通りを越え、次が本町通りです。鹿野街道より東側、若桜街道までのこの通りは江戸時代遊郭が立ち並ぶ鳥府最大の歓楽街でした。
鳥府では各町内には稲荷が祭られていて、毎年新年に神事を行います。本町通り鹿野街道と智頭街道の間にも二つ稲荷がありますが、西側の稲荷のご神体が唯一火災を免れ、現在鳥取市立博物館に預託されています。稲荷信仰の始まりは良く解らないのですが、吉川経家公切腹後に鳥取城主となった宮部継潤が城中に稲荷を建立していますし、雪窓夜話にも多くの狐に係る逸話が収録されています。


19.重り石
本町通りを西へ袋川の土手を南に下ります。江戸時代に造成により作られた袋川、池田家の管理下に置かれたのは智頭橋・若桜橋・鹿野橋・鋳物師橋・出合橋の五つで設置された橋には洪水に備えて重り石が用意されていました。洪水のとき橋が流されないように使用したようです。橋が鋳物師橋にも幾つかの石が残され、御用の字が見て取れます。

20.袋川の段差
鋳物師橋を西に渡り真ん中当たりで川の土手を見ます、河川改修で殆どわからなくなりましたが、川の城側と外側では土手の高さが違います。城下町を守るため決壊時には、川外に水が流れるように作られていたんです。右が川内

21.善久寺
更に西へ進みます。信号を越え暫く進むと左に景福寺です、この寺の山門が道より引っ込んでいるのは、江戸時代ここに枡形があり、城下防衛の最前線となりました。実際剣の使い手を配して、この枡形で百姓一揆を食い止めています。景福寺には後でよりますので、もう少し進むと右に善久寺があります。江戸時代は鳥取市丸山にありましたが、明治以降にこちらに移転してきています。寺の山門の引っ込みは、後の設計です。このお寺は荒尾氏の先祖東海郡木田城主荒尾善久を供養するため建立されたものですが、徳川と荒尾の太いパイプを示す証拠です。
実は荒尾善久は家康の負け戦三方ケ原の戦いで戦死しているのです。荒尾は信長配下としてこの戦に参加して当主を失いました。この事が、神君家康を命を賭して助けたとして、幕府に対する荒尾家の優位性があり、池田家が幼君でもお家断絶にもならず、一国一城の例外米子城の存続などが結果として残ったと考えています。ちなみに本堂前の小さな自然石三つが善久と家臣の墓です。
善久寺の紹介ページ
22.玄中寺
更に西に進むと拙が旦那の一人、玄中寺があります。この寺は、池田家が入府する前より鳥府にある古い寺で、最初は北中あたり、次に玄好町あたりにありました。江戸時代荒木又右エ門が当初埋葬されたのは玄好町の寺でした。又右エ門の墓の左側に沢山の荒木家先祖の墓石が狭い空間に集められる。この寺には、宮部時代の城代家老伊吹大蔵や、勝海舟の弟子だった砲術士近藤類蔵の墓など多彩な顔ぶれが眠っています。
詳しくはこちらへ
23.景福寺
先ほどの景福寺に戻ります。東側には鳥府の二番家老倉吉荒尾の下屋敷がありました。下屋敷にはかつて因幡二十士事件の加害者が監禁されていましたが、土壁破って逃走しています。因幡二十士についてはこちら。このお寺には荒尾代々の墓のほかに後藤又兵衛の墓、彼の墓の後ろには大阪で戦死した配下の墓も並んでいます。又石版には彼が黒田如水の子だとかかれています。その他、沢山の鳥取の先達のお墓があります。
詳細はこちら
24.参勤交代路
景福寺の中を突っ切って、南へ、路を渡り先に小さな橋が見えます。橋を渡り左(西)に進みます。暫く進むと歩道のある通りに出ます(橋の名は鳥羽屋橋)。ここを右(西)に進みます。いけばな教室を見たら次を左に細い路地を進みます。突き当たると行徳緑地左には行徳苑という建物が、この二つに挟まれた通りが参勤交代で因州池田家の大名達が通った路です。(鳥取には因州池田家・因州鉄砲津家・因州三田家と3つの大名家がありました)

25.六差路
この通りを左に進みます、途中大きくクランクして中々狭い通りです。路が突き当たったら鹿野街道です。右に路をとり南に進みます、次の信号を左(西)へ進むと、鳥府唯一の六差路です、若い頃は何度か酔っ払って自転車で真ん中の植え込みに突っ込んだものです。今はしませんが良く命があるものだし、人様に迷惑かけなかったのが幸いです。

26.妙玄寺
六差路の来た路の一つ右手の通りを右(南)へ、次の信号を渡ると右手歯医者の次に妙玄寺の入り口があります
拙が尊敬する堀庄次郎のお墓があります。彼は、武士の学校尚徳館の先生を務めて多くの人材を育てました。後に大目付として、家中の斡旋に努めました。しかし彼の思想を受け継ぐ者に、池田家の施策を曲げたと反感を受けて暗殺されてしまいました。彼を失ったことによる鳥府の損失を思うと悔しい気持ちになりますが、自らが放った矢が自らを射たとしたらば、大きな時代の流れの中で彼は本望だったのかも知れません。
堀庄次郎暗殺事件を探る
少し南下し左手に鳥取駅です。
さて、これで鳥府の散策を終了します。外にも沢山あるのですが、幸田屋的要処をピックアップしてみました。本当は紹介したい場所の半分も巡っていません。城山にも登っていないし、経家公のお墓まいりもしていません。今度一泊二日編をつくろうかな。是非旅館に泊って鳥府通に成って欲しいです。地元の方も家族でウオーキングどうでしょうか。新たな発見や出会いがきっとあるはずです、もっと自分の住む町のことを知ってみようと思いませんか。不勉強で間違いがありましたらご教示ください。今後もこのページは手を入れていこうと思っています。