尊王攘夷と鳥取藩の動き 概略
間違いの指摘は受け付けますが、質問は一切受け付けません。
教育関係
尊王活動を支えた鳥取の指導環境整備と先達者の知恵
幕末動乱期に活躍した草莽の志士といわれる人たち。彼らが活躍の背景にはそれを支えた教育に基づく思想的なものがある。
鳥取では、1.「尚徳館」を中心とする水戸学派文事政策と、2.私塾での国学の教え、3.神社における国家神道の考えだ。
嘉永3年2月29日、幕府は徳川御三家のひとつ水戸藩から徳川斉昭の五男、五郎麿・慶徳を因州藩十二代藩主と指示した。
慶徳は、天保8年水戸斉昭の五男として生れ、幼名五郎麿といい、弟は江戸幕府の最後の将軍徳川慶喜であり、九郎麿は岡山藩主・池田茂政・十男は浜田藩・松平武聡。
嘉永5年鳥取城に入った慶徳は、早速、藩政革にした。
3月15日、家老池田式部利寿を「学館御趣向懸」、家老荒尾但馬成裕を「御軍用懸」に任命。 さらに「国産座長役」に中野良助、「財政」に安達辰三郎を任命。
改革の中心は、水戸学派といわれる弘道舘の影響をうけた「教学の確立」、「軍制の改革」、「藩財政のたて直し」の三目標の実現を断行。特に「人材の育成」とする慶徳の水戸学・百年の大計の思いで教学の振興を第一に掲げその改革に乗りだした。
1.藩校「尚徳館」の拡張と改革
従来からあった尚徳館は狭く、まずその拡張が求められ、次いで教学内容の充実が必要であった。儒学中心に偏った学舘に、武道も教授する式場が設けられ、弓術・槍術・居合術・柔術・体術などを教授
学問も儒学だけにとどまらず礼法、国学、兵法も教授し、更に孔子廟を造営して教学の振興につとめた。
今まで士分以上の学問場「文場」の拡張に伴とともに、士分以下の教学も重要視し、稽古場である「小文場・小式場」を置き、教育の充実を図った。
続いて安政6年には、第二次改革がはじまり、さらに拡張工事が進められ、堀庄次郎が11月21日、「学校文場学正」に任命され、「文場引受之儀付、改正方書出シ候」として御懸用人・白井重之進、学校奉行明石友衛門が藩主に提出し、慶徳みずから朱筆を入れ、学校御用懸の家老・荒尾鞍河のもとに送られ万延元年三月から改革がいよいよ実施に移された。
この改革は、教授組織・学習方法などの改革に重点がおかれると共に、権門請託・門地旧慣の弊を打破し、藩政の諸役人の登用は学館で養成した人物を評価・推薦する制度を確立することにあった。
運営に当っても子弟を六級に分け、試験による進級制度を導入した画期的なものであった。しかし、封建制度からくる確執を脱去することは容易ではなく、家中・在中者のなかには、身分にこだわる保守派もあって教育改革に反対し格式を超えることは至難とする声もきかれた。しかし、国学の導入、文事の拡充は、確実に尊撰思想を育て後年、志士たちの思想的背景と行動力に結びついていった。
2.各私塾での教え
a.鹿野「修道館」と国学者
鹿野・郷校「修道館」を設立した熊谷道伸は、寛政3年29歳で大阪に出て懐徳堂に学んだ、途中病気になり、二年後には郷里に帰り健康回復後は家業の庄屋に専念した。彼の学徳を慕い近隣の若者が集まったため「修道館」を設立儒学を教えたが文化13年死去。
その子供の子貞は、父の死後文政13年、最初大阪で3年、泊園書院の藤沢東がいに四年学び、帰国後「修道館」を再開した。
b.国学者飯田秀雄,年平
国学が鳥取に伝わるのは、河原町の神官国本道徳が藩の許可を得て衣川長秋を藩に招待したことに始まる、飯田秀雄は国本の義弟で、衣川の門に入り、和歌山に移り、本居大平に師事、天保五年鳥取に帰る。
その子の年平は天下の三平(加納諸平、石川依平)と呼ばれる。本居内遠、伴信友に古学、加納諸平に歌道を師事。新政府の下で式部大属となった。
c.光輪寺住職佐々木智完(無蓋)
飯田秀雄を師として、国学や和歌を学ぶ、伊丹で一時古学を教えたが転じて本山に出仕、晩年寺に、私塾を設けて近隣の姉弟を教えた。明治元年没した。
d.景山塾
景山粛が設立した私塾、粛は大阪の華岡塾で医学を学ぶ傍ら、沢典学に儒学を、吉益南涯に古医学を学んだ。粛の子龍造は後に柳川星巌に学び藩の学館教授として多くの人材を育成した。
三条実美に仕えた富田織部、新政府の教部大丞を勤めた門脇重綾等がいた。
3.国家神道の浸透
山崎闇斎の垂加神道も、玉木葦斎の孫玉田永光が、布勢山王さんの神宮上地家に入ることにより伝えられた。
すなわち幕末の王政復古の思想を形成するいろいろの学問は、藩の学政と在野の学者によって、因伯二州に広く行われるようになっだ。
幕末攘夷運動
40里の海岸線防衛ラインの強化は、鳥取で大問題となるのは、文久3年6月14日天保山で英国舟を砲撃してしまった事による報復を恐れた時に始まる。
当然それ以前にもある程度のことはされていたようだ。
1.従前の制度
浦富・賀露・泊・赤碕・境の遠見番所と米子の見張番所に組士(藩士)、大筒、鉄砲等を配備していたようだ。天保13年に数量見直しがされている。
しかし賀露には、見張りのみの配置でいざと言うときは、城から駆けつける手はずと成っていたようだが、実戦訓練がなされた記録はない。
2.海岸線防衛ラインの強化
a. 大船が来ることのエリア把握のため水深調査と大筒配備計画の策定を実施
嘉永2年、御蔵所の警備増強 同年10月より翌年8月、海洋調査 海岸より30町までの水深調査と警備計画の策定
嘉永6年2月大筒の再配備 浦富番所・賀露番所 鵜殿藤輔構え 泊番所 荒尾小太郎構え 赤崎番所 津田伊織構え 米子河口番所荒尾但馬構え
b. 諸計画を実際に敢行していく。
安政5年12月、海岸防備の区分けを細分化、従前の区画を三十区画に分けなおした。この頃陸戦台場を造成したようだ。中ノ茶屋陸戦台場が鳥取市史に書かれている。青谷台場の記述も別に見つけた、全体像は藩政資料で未だ見つけていない。
そして台場建設計画の策定
反射炉 安政5年に建設開始八橋郡瀬戸村武信潤太郎が東伯郡大誠村六尾に建設 この時点では、大砲は好評で、岡山池田、石見浜田より注文を受け、萩毛利も視察に来ている。後述するが鳥羽伏見戦で爆発している。
文久元年4月3日には、配備計画に基づき実際の対応を指示して、賀露では、鳥取城山頂の丸に太鼓と一貫目砲を配備して、出動訓練を実施している。
c.攘夷実行
鳥取藩文久3年6月14日天保山で英国舟を砲撃
同年台場建設、大砲再配備 浦富台場・浜坂台場・賀露台場・橋津台場・赤碕台場・由良台場・淀江台場・境台場
台場の守備は多くは民兵を起用、特に淀江の松波六郎右衛門隊は長州征伐、奥州戦争にも参加、他で珍しいのは、神主さんを多く動員している、浜坂は永江修理以下三十人、賀露は伊福部極以下四十人、中ノ茶屋大幡縫殿以下三十三人
日を決めて訓練して、砲術家や藩校に学ぶものたちをも動員していたようだ。
この頃未だ陸戦台場建設が続いている、文久3年9月7日浜坂傍示に野戦台場二箇所築造につき、武器奉行・町奉行・郡代に其々申渡があり安場敬之亟に築造御用懸が申し付けられた。残念ながら場所不明です。
鳥取には台場が幾つあったんだ!! 教えてください。
鳥取藩の尊王運動
嘉永3年、水戸徳川の子を養子として藩主に迎えた鳥取藩は大きく尊王攘夷運動に傾く
八尾正明 鳥取藩西館家臣(池田清直に対し国事に努めるよう諫言して切腹)。150石 安政2年8月29日死亡
文久2年藩主に攘夷運動に参加するよう大原重徳卿から密書が届いたものを側近が渡さなかった事件があり。尊王攘夷派の藩士は側近重臣の態度を疑い敵視するようになった。
参内を妨げた、御側用人高沢省巳、中老田村図書、元締伊丹甚太夫、側役二宮杢之助、戸次半兵衛、三番家老和田邦之助を解任、彼らを訴えた小仕置田村貞彦、正垣薫、堀庄二郎も解任された。(この辺りまでの喧嘩両成敗は素晴らしい判断だと思います。)が、次の側用人に佐幕派が採用され因幡二十士事件につながる。
鳥取藩主は文久2年10月20日、天皇に拝謁し京都警護と幕府説得の使者の勅使の応援を命じられ勅旨を授けられた。
仙石隆明 鳥取藩東館家臣脱藩して王政復古運動に関わる。同志と足利三将軍木像の首を切り、文久3年2月22日京都守護職松平容保の兵の奇襲を受ける。自刃した。松田道之・足立正声らにより霊山に埋葬される。
藩主の公武合体論に近い尊王攘夷論を不服とする一部藩士は、徒党を組み重臣を暗殺する暴挙に出たものがいた。(因幡二十士事件)別ページが開きます
加須屋貞蔵 鳥取藩士加須屋伝之丞の子。砲術を得意とする。京都で尊王攘夷運動に奔走。藩の制止にあい自刃。天保13年〜文久3年
元治元年、長州征伐論が高まる中、藩主以下急進派が、長州擁護を掲げて共倒れしてもかまわないとまでの議論になる。
尾崎孝基 鳥取藩池田式部家家臣。志士(天誅組の挙兵に参加)。元治元年2月16日京都の獄舎で打ち首
藩主慶徳は、家老鵜殿主水介長道、番頭津田上総、田村図書に自分に代って京都を守衛するよう上京を東館三万石藩主仲立に命じた。それは、長州藩が正気換回の機会が到来したとして、因州、備前、在京水戸藩と結び大挙倒幕に出ようとする動きが急迫していたためである。仲立は因幡二十士の本圀寺事件のとき漸られた黒部家らの一族が、仇討ちすることを恐れ説得していた三万石の分家であり、親長洲派に味方していた。しかし、因州、長州が連合して大挙兵を率いて上洛し、君側の奸賊を掃うとの藩論が確立することは得策でなく、「かえって朝敵の汚名を蒙るのみで、少時自重して強兵富国を策すのがよい・・・」と慶徳公に遺言を残し、病気と称し登城せず、元治元年6月27日、二十四歳の若さで諌死し、その自殺は伏せられていたが、禁門の変の終った三か月後の十月に喪が発せられた。
石川肇(一) 鳥取藩東館家臣、和宮降嫁の際の奏者。足利尊氏らの木像の首を斬り三条河原にさらす。下関で攘夷決行の砲撃に参加。天誅組挙兵に参加。元治元年7月20日京都六角の獄舎で処刑
横田友次郎 幕末の志士(田村貞彦に仕える。長崎に遊学。藩内佐幕派の襲撃に失敗。生野の挙兵に参加するが、元治元年7月20日京都六角の獄舎で処刑)。
また、藩士増井熊太と沖剛介が大目付堀庄二郎を暗殺(元冶元年9月5日)して切腹(元冶元年9月11日)を遂げるのもこの頃だ。
結局勅命により第一回長州征伐は、同年11月出兵したが、戦をすることなく翌年正月には鳥取に帰ってきた。
翌年の第二次長州征伐では、6月に出発、7月上旬に浜田に到着、紀州兵の後ろを守備しようとしたが、紀州が後退、浜田福山の兵も後退してしまい。長州の追撃の矢面になってしまった。しかも、浜田と調整して防御に当たることになっていたが、浜田藩主病気とのことで舟で逃げ出し。出雲に頼まれ、出雲の国境警備のため今市に七月二十四日集結した。将軍の急死で八月中旬に休戦となり九月には兵を解いた。
堀庄次郎門下、鳥取藩士高浜鉄之助・藩医大谷準造(シーボルトに学ぶ学館勤務)、藩論に意を唱えて、取調べの前日切腹。慶応2年8月2日
荒尾近江陪臣村川直方、大山寺で義挙を企て藩の知れるところとなり、取調べに出頭するところを主家に災いが及ぶを恐れて、切腹を事前に進められたが聞かず同じ荒尾陪臣に殺害された。慶応3年10月11日
慶応3年10月14日大政奉還
12月9日王政復古
ところが、軍事力を持って徳川幕府を潰したい西郷隆盛は浪人を集めて、江戸薩摩藩邸を舞台に、テロ活動を行わせた、その誘いに乗って徳川幕府は12月25日に江戸薩摩藩邸を攻撃、翌年正月3日の伏見鳥羽街道での戦となる。
明治へ
慶応4年1月3日、会津・桑名二藩の兵を先鋒とする幕府軍と、薩摩・長州両藩は鳥羽伏見で激突。
鳥羽離宮跡公園内の碑に
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地
「小枝橋は、慶応4年1月3日に京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」
という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がア−ムストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始まります。
こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。 新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。」とあります。
薩摩藩は、小枝橋より東側、安楽寿院(最初に錦の御旗が揚った場所といわれている)を本陣に、鳥羽離宮跡、城南宮等横一列に展開していました。
強引に小枝橋を通過しようとする、幕府大目付・滝川具挙に大砲などを発砲して、戦いが始まり、大変な激戦で3日、4日と一進一退を繰り返し、4日早くは幕府軍が有利に展開したが、隊長を戦死させるなどして後退をしてしまう。鳥羽離宮の石碑がある秋の山は砲台として使用すると丁度よい雰囲気だが、実際使用されたかは不明。
伏見では、東福寺に長州藩。御香宮に薩摩軍が布陣し、対峙して南側に伏見奉行所跡(伏見奉行所は,慶長5年に創設されたが,実際は寛文6年水野石見守忠貞が伏見支配に専念するようになっったのを最初とする。与力10騎,同心50人が属し,伏見市街と周辺8カ村(享保以降9カ村)を支配した。慶応3年廃止。慶応4年正月3日の鳥羽伏見戦では,幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所等に入り,御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。激しい戦いとなり伏見奉行所は灰燼に帰した。)に新撰組、会津藩等が展開していた。小枝橋で砲撃が始まると、御香宮方面の薩摩軍が伏見奉行所跡を砲撃した。
東本願寺伏見別院は会津藩本陣で、山門前は四ッ辻の四ッ当たりといういわゆる「遠見遮断」の構造になっていた。
朝廷は、3日の戦いが始まり、その夜伏見に藩邸を持つ各大名に、幕府軍の討伐を呼びかけた。
「鳥取藩京都屋敷(現在NTTの西陣局)にいた家老荒尾駿河は八ツ時ごろ伏見の方向でさかんに砲声がとどろくのを聞きすぐ斥侯を出した。
幕府軍と薩長との開戦であった。直ちに御所警護の人数を繰り出し、中立売の御門を守らせ、留守居役を参与御役所に参上させ朝廷の指示を待った。
夜に入り、呼び出されて参与四条前侍従より達しがあった。
荒尾駿河
本藩家老始め人数上着、並びに松平相模守、松平修理等追々登京、王時に勤労の段、叡感尠なからず候。
然る処昨今の形勢、もっての外の次第、遂に伏見表戦争に及び候。
随って薩長土芸防御尽術の儀にては候へども、在京人数伏見表へ出張、右四藩に戮力警備これあるべく、仰せ出され候事。
正月三日
そして、四条卿は重ねて「伏見表が手薄であるから、直ちに出兵するように」と申し添えた。
駿河ははせ帰って、小仕置・側御用人・御留守役・同周旋方・外交掛りを集めて協議したが容易に決まらず。
駿河の自分の手勢を率いて勤王の誠を尽くすの一言で体制が整い。
番頭唯武次郎を隊長に約250人を繰り出した。駿河は自ら御所警備に当たった。
1月4日仁和寺宮を征伐大将軍として錦旗を掲げた、鳥取藩は、長州指揮下にはいった。
兵が伏見三宝寺に到着したのが4日暁七ツ時、同日一旦押出したが戦闘なく、伏見藩邸(紀州藩邸:現在月桂冠昭和蔵の一部の南側・)東約200mの三寶寺に宿陣。
1月5日朝六ツ時伏見黒門まで押出し、淀堤中ほどで戦闘状態にはいり、「苦戦いたし候内、大砲破裂」(現在京都競馬場の駐車場道沿いに幕府軍死者の碑が立っているが昔日の姿は思い浮かべる術はない。)とか、敵兵淀橋焼落とし、橋(伏見納所町にあって宇治川にかかり,淀城下の入口にあった淀小橋(幅4間・長71間)は,明治31年からの桂・宇治・木津川の三川改修工事で道路上に痕跡を残すのみとなった。
)を挟んで砲撃戦に成った。
敵兵敗走し、近藤類藏は桑名藩の大砲を分捕った。が長州より戦闘停止の連絡が入り。この日は終えた。
この時点での人数割
中立売御門警備180名 荒尾陪臣30名
正親町三条殿警護 20名
長谷殿 30名
伏見 250名
この戦での傷者は
田中周造 額に玉瑕 近藤類藏隊
中村市蔵 片腕深玉瑕 四宮郡司隊
桂幾之丞 片に玉瑕 近藤類藏隊
善兵衛 片腕浅玉瑕 山下清太郎隊 弾薬持ち夫卒」
鳥羽方面も激戦になっていた。納所付近に戦死者の碑が沢山残っている。激戦だった愛宕茶屋付近の戦死者の戊辰之役東軍戦死者之碑が妙教寺にある。納所村愛宕茶屋堤の文字が悲しい。
6日には、橋本、八幡に展開した幕府軍を、橋本、男山、男山左手と三手に分けて攻撃した。このとき、淀川を挟んで津の藤堂家が守る高浜砲台と小浜の酒井家が守る楠葉砲台で砲撃戦が為され、幕府軍敗退の原因の一つとなる。
同日鳥取藩は伏見戦の任を免除され、当日陥落した、八幡橋本方面の警備を申し付けられる。
戦いの終焉。
大阪の状況、鳥羽伏見で大敗した幕府軍は、大阪城に戻ってきた、しかしそこには将軍はいなかった。
薩摩の大阪藩蔵は慶応4年1月7日に焼かれたが、鳥取藩蔵はどうなっていたのか、判りません。ご教示ください。
ここで重要なのは、鳥取藩の新政府軍参加は藩主の意思決定でなく、一家老の判断で決まった。鳥取藩主の病気については何れ語ろうと思います。鳥羽伏見戦が鳥取藩にとって最後の武士だけの戦だった、銃火器を主体とする近代の戦争では、足軽、農兵の役割が大きくなり、以降彼らの屍の上に戊辰戦争は成立する。
1月10日鳥取では、番頭香河大蔵、鉄砲奉行渡瀬和泉、銃頭藤田束、天野裕治、本内金左衛門、建部半之丞にそれぞれ小隊を率いて上洛するように命が有り13日出発、27日上京。
鳥取藩は三手に別れて倒幕戦に参加した。一隊は荒尾駿河を旗頭として大津警衛に入った。(1月10日より20日まで)
一隊は十八日桑名藩に向けて進撃した。
一隊は明治天皇に従って大城城に入り、その警衛に当たった。
鳥羽伏見の戦が戦況がまだ不明の正月三日夜、西日本の各藩の鎮撫策が講ぜられ、山陰道の北丹、鳥取藩、出雲藩の鎮撫使として、参与西園寺公望を総督とする軍隊が編成された。それを受けて藩論諸説が京都藩邸と鳥取藩内でも混乱紛糾していた
1月14日になって藩論が勤王一途に統一され鎮撫使迎接隊が編成された。それで京都藩邸に居た伊王野次郎左衛門が福知山まで出陣していた総督陣中へ迎えに出た。
2月5日に鳥取に来着している。同日、岩美郡新井村里正の村上源蔵が、輜重の運輸に支障あるを憂い近隣の林中で自刃している。鳥取藩戊辰戦争最初の死者は農民だった。西園寺公望は後にこれを聞き書を具して祭祀料を送り、大正八年従五位を追贈された。
その後、出雲藩の態度表明に疑義があり鳥取藩がその調停に出る。 2月25日米子まで出陣した。 2月28日松江まで赴く。この山陰道簾撫使が丹波路に居た時丹波国桑田郡山国庄の庄民が農兵として従事することを希望し、のち鳥取藩に所属して奥羽戦役で活降し、また多くの犠牲者を出した。
2月9日有栖川熾仁親王を東征軍大総督に任じその下に東山道、東海道、北陸道の先鋒総督兼鋲撫使を置いた。
2月10日、岩倉具定を総督とし、参謀板垣退助ら土佐藩兵を中心とした東山道先鋒軍に参加出兵した。家老和田壱岐を旗頭とした総勢七九六人(「鳥取市史」)といわれ、その中には二十二士事件を起し脱藩していた河田佐久馬が帰参を許され、因州藩参謀として任ぜられている。またこの戦以降丹波山国隊も参加した。
2月17日大垣到着
2月28日伊藤松之助が軍律違反で打首
3月2日上諏訪
3月5日甲府入城
3月6日柏尾戦争に新撰組隊長近藤勇らと対戦した。
昼頃勝沼に到着、関門で抵抗されたが、是を破って進み、柏尾山に土塁を築き、橋を落として抵抗したので、藤田束・天野裕治隊と土州の砲隊は本道を進み、佐分利九之尤・土州小隊と高島小隊は右方の山道、藤田隊は左の山に押し登る。こうして三方より責めたため、新撰組は逃げ出し我軍は後続本体と合流して鶴瀬まで追いかけたが夜になり、逃げられてしまったため、宮脇隊に鶴瀬関門警備を託して勝沼に帰陣
この戦での死傷者は
木村(品治)伊助 大橋鳥井坂討死 天野裕治隊 甲州勝沼護念寺に葬る
森本義右衛門 手負 天野裕治隊
3月8日笹子峠
3月9日猿橋
3月10日八王子
3月14日内藤新宿、千駄ヶ谷、泉、青山等で銃器火薬庫を押さえ封印
3月18日市谷尾張藩邸に入る。
4月10日次の出陣までの間、天野裕治隊の雑夫文次郎と鹿次郎が上野彰義隊に撃ち殺されるという悲劇も起きている。(江戸長龍寺に葬る)
慶喜の恭順によって、一応関東地方は平定したものの、奥羽北越の諸藩の動きほ予断を許さず、会津、彰義隊の動きは、直接大きな波紋を生んだ。
幕府の脱退兵を中心とする佐幕派の武士たちは、関東北部に出没し、ついに結城、宇都宮を占領したので、官軍はこれを掃討撃滅せんとし、我が鳥取藩にまず宇都宮城攻撃の命令を下した。
「太政官日誌」慶応4年戊辰4月の項によって、その戦況を眺めてみよう。
3月中旬の頃から、会津の歩兵や佐幕派の武士の動きが活発となり、兵糧、兵器、弾薬をあつめ、要地を占領したとの噂がつたえられた。また結城の城主水野日向守ほ、この頃城外にのがれていたが「彰義隊と語り、3月26日結城を攻撃して養父を追い、会賊と合して宇都宮を」攻撃せんとし、その勢ほ非常なものであった。
「宇都宮の重役県勇記」ほ総督府に救援を願い出たので、「大監察香川敬三、小監察平川和太郎に鎮撫方」を命ぜられ、「薩州の有馬藤太、長州の祖金金八郎、土州の上田楠次」に彦根藩、須坂藩および岡田将監の兵三百をひきいて、4月2日板橋を出発した。「五日有馬、上田の両人は越ケ谷駅から兵を潜め、急に流山の賊を襲う」たので、賊兵はおどろきあわて、なすところなくして、賊将大久保大和(近藤勇)はとらえられ、本営に送られた。有馬、祖金兵由、五十人をひきいて結城を攻撃、「賊徒敗走」したので、祖金が城を守ることとなった。「宇都宮四方三里の間土民動揺所々に屯集し、屋を引き火を放ち、乱暴」をしたので、官軍の入城をこいねがっていた。
4月7日香川、有馬等が宇都宮に入ったので少し静かになった。
香川らは日光、斧市駅付近一帯を掃討したので、賊もー時静かになったもめの、水野日向守らは再び勢力をもりかえし
4月17日大挙して結城を襲ったので、「祖金の兵も衆寡敵せず城を捨てて走った」。賊軍の意気非常にあがり、さらに宇都宮を攻撃しこれを陥落させた。
この報告により「因土両藩へ出兵」の命が下ったので、4月18日寅の刻市ヶ谷尾州邸を出発
4月20日参諜河田左久馬は以下を引きつれ壬生城についた。
佐分利鉄次郎隊 一分隊 砲一門 天野裕治隊 一小隊 山国隊 一小隊 相模守人数
帰順兵 大久保駿河守隊 一小隊 帰順兵 戸田丹波守・有馬兵庫守合一小隊砲三門 土州兵四小隊 砲二門
4月21日22日 安塚戦争
「壬生城より南二里ばかり安塚、及び幕田と申す処、凡そ半里をへだててその間賊兵千名」来襲したとの噂があった。
鳥取藩が先鋒であったので「山国隊一小隊、大久保隊一小隊、有馬、戸田合わせて一小隊、大砲三門未の刻頃」おし出し、「土州も一小隊差し出し」これに対したが、「地形甚だ不便」である上に、賊軍はさらに人数をくり出した様子であったので、土州より夜半頃さらに一小隊を出した。又「丑の半刻土州全軍進発」した。「河田左久馬は壬生城の保守覚束なしと暁まで守備し、しゅう明全隊」進出し安塚まで十丁ばかりのところで、「互いに発砲官軍一旦勝利の処、賊兵盛り返し勢甚だ盛」であった。賊兵の猛攻に官軍浮き足だち「弊藩手負死傷を荷い帰るを見、何れも今日を死期と決し激励奮闘十分苦戦」におちいった。左久馬はこれを見て「二小隊を率ゐ哨戒して進み、左久馬自ら抜刀大声して日く、退く者は他藩と雖も生を免さず」とこれによって官軍大いに勢を得、逆襲に転じた。賊兵たまりかねてすこし引揚げたところを、すかさずカン声をあぜて追撃、因州軍は幕田西河まで一理許を一息に追立てたので、賊兵はのこらず宇都宮に退いた。そこでしばらく休息食事をした。敵兵ほ大鳥圭介に訓練され、仏国式のすぐれた武器をもち、地理に通じていたので、各隊とも苦戦したのである。 何処の帰順兵か大久保駿河守隊 一小隊は山国隊が貶すほど弱腰で、最後は敵前逃亡する。
この日の戦闘で、東照大権現の一旗を分捕ったが、
新井兼吉 戦死 河田佐久馬隊(山国隊付)
石脇鼎 帰営後戦死 池田相模守隊 野州壬生興光寺に葬る
田中浅太郎 戦死 山国隊 野州壬生興光寺に葬る
高室治平 帰営後戦死 山国隊 野州壬生興光寺に葬る
原田留三郎 戦死 平沢源太隊 吹上藩士 帰順兵 丹波山国招魂社
寺村幸太郎 戦死 平沢源太隊 吹上藩士 帰順兵
横地元助 戦死 平沢源太隊隊 吹上藩士 帰順兵 足軽
尾花忠兵衛 帰営後戦死 河田佐久馬隊 松本藩士 帰順兵
松澤銀斉 戦死 河田佐久馬隊 松本藩士 帰順兵
鈴木角之丞 戦死 平沢源太隊 吹上藩士 帰順兵
熊倉源吉 戦死 平沢源太隊 吹上藩士 帰順兵
高室清太郎 腹部貫通 山国隊 軍監四宮要三郎に誤射される
辻啓太郎 右腕貫通 山国隊
草木栄次郎 右大指かすり 山国隊
水口幸太郎 右肘かすり 山国隊
という死傷者を出した。
4月23日には宇都宮総攻撃に移った。
実はこの日出遅れた。前夜の雨で修補の必要があり、その日の第一次攻撃に参加できないでいた。薩、長、土、因、大垣の兵が、四方から一斉に砲撃するなかを、天野裕治の一隊は大手から、佐分利九之允の一隊は搦手から突入し、めぎましい活躍をし、土州藩さえもこれを認め、太政官日誌土佐藩届中にも次のごとく書かれている。
「是日再び城内に攻懸りし時、因幡河田左久馬大に奮て兵隊を励ます。よって因兵頗る力戦す」このようにして開城となり、宮川達之進が藩旗をかかげて一番乗りをなしたのである。
、
足羽篤之助 弾創・戦死 天野裕治隊 宇都宮光琳寺
三崎次郎 弾創・戦死 河田佐久馬家来 帰順兵 元桑名藩士 宇都宮光琳寺
竹内八百吉 弾創・4/23戦死 佐分利鉄次郎隊 宇都宮光琳寺
岸本又一 弾創・浅手 天野裕治隊
山根栄七 弾創・深手 菊章旗持隊
石田仁三郎 弾創・戦死 天野裕治隊 宇都宮光琳寺
後藤鉄五郎 弾創・深手 佐分利鉄次郎隊
岡田忠三郎 弾創・浅手 天野裕治隊
という死傷者を出すした。
(この宇都宮城攻めのとき、河田佐久馬が後ろつまり味方より二発の狙撃を受けたという噂を聞いた:山国隊)河田は、藩士の信望厚かった黒部外3名を死に追いやる事件を起こし、自分の切腹を恐れて長州に一時逃げ出していた。
新政府軍は更に今市、日光まで敵軍を進撃し、館林に滞在していた
閏4月22日命により江戸に帰還している。
5月に入って江戸市中の旧幕府旗本の武士を中心として上野寛永寺に立籠もって幕府勢力の回復を企てた。
5月15日上野戦争
薩摩を中心とした政府軍は上野彰義隊の潰滅作戦に出た。この戦は彰義隊必死の戦闘をくり返し銃砲戦と白兵戦によって両者に甚だしい儀牲者を出した。鳥取藩も戦死九名、戦傷者は一七名でこのうち後日死亡したもの五名である。
この日の動きを追うと、早朝江戸城に集合(宿舎は尾張藩邸)、新発田・薩摩・久留米・備前・我藩は明方和田倉門内を出発
鳥取藩で上野へ向かったのは、相模守の石川豊太郎・久山省二の二小隊、山国隊・佐分利鉄次郎隊・河田佐久馬・足立無事介達だった
薩摩に続いて進み湯島天神へ、敵兵なく薩摩は黒門へ向かい。鳥取藩は池の端に進んだ。
直ぐに薩摩が交戦を始め応援のため仲町に出て砲撃したが効果が無く、敵の東側に出ようと弾丸が雨のように飛び交う中を御徒町に出た。
敵の槍兵が出てきて挑んできたが山国隊と佐分利鉄次郎隊が応じて発砲、敵の退却に併せて山下に出て薩摩と示し合わせて黒門を攻撃した。
敵は砲壁をつくり、木柵を設けて樹間に出没してよく射撃したので、薩摩は三橋(忍川に三つの橋が掛かっていた)を越える事が出来ずにいた
松平相模守隊が黒門前右手の茶屋の二階より、山王台を砲撃した、河田は機を見て、藩兵をもって黒門右手の高堤を奪い、河田佐久馬隊黒門を薩摩と共に突破(河田佐久馬隊に組み入れられていた山国隊の記録では一番乗りして山王台に到着とある)、そのまま土塁上を上まで駆け上る。後方熊本の発する砲撃が、門内で破裂し多くの死傷者をだした。
黒門一番乗りは佐分利鉄次郎、次いで秋田實、西分家の使役中嶋銀平、寛永寺に火をつけたのは堀元九郎
佐々木中之丞 破裂弾創・戦死 佐分利鉄次郎 隊東京光岳院に葬る
田川廣之丞 破裂弾創・戦死 佐分利鉄次郎隊 東京光岳院に葬る
田中五右衛門 弾創・戦死 山国隊 東京光岳院に葬る
杉山繁之助 弾創・戦死 河田佐久馬隊 小田原藩士 帰順兵 東京光岳院に葬る
森本清太 弾創・戦死 参謀付
秋田嘉兵衛 破裂弾創・深手 使役
瀧金市 破裂弾創・深手帰営後死 佐分利鉄次郎隊 東京弘福寺、鳥取市一行寺に葬る
有澤平之丞 弾創・浅手 佐分利鉄次郎隊
細木元太郎 弾創 山国隊
森脇市郎 弾創 山国隊
中西市太郎 弾創・後死10/4 山国隊 東京光岳院に葬る
喜三郎 弾創・深手6/4死 雑夫
臼井貞之丞 弾創・深手 河田佐久馬隊
星見辰之丞 弾創 佐分利鉄次郎隊
伊藤猪吉 弾創・深手5/4死 佐分利鉄次郎隊 東京光岳院、鳥取市広徳寺に葬る
那波九郎左衛門 弾創 山国隊
前田庄司 弾創 山国隊
高室重造 弾創後死 山国隊
中川熊蔵 弾創 石川豊太郎隊
八尾重助 弾創 石川豊太郎隊
吉助 弾創・深手 弾薬夫
横山駒之丞 弾創・剣創深手浅手3ケ所 池田摂津守隊
岡山力之助 横死 池田摂津守隊 鳥取市日香寺に葬る
田村宇三郎 横死 勘定方付
漆原甚左衛門 横死 勘定方付 鳥取市妙円寺に葬る
高田藤次郎 横死 勘定方付
旧幕府軍遊撃隊の元に、上野の開戦が知らされると、彰義隊に応呼するため江戸に登ろうと、箱根に向かう。途中、沼津領内で新政府軍軍監和田藤之助の宿舎を襲い負傷させる。軍監和田藤之助は、遊撃隊の動きがおかしいと、小田原藩に討伐を指示した。上野で戦争が始まり、小田原の軍監が沼津への出兵を止め、代わりに箱根関所の守備を命じた。
5月19日箱根の関所を通過できない遊撃隊は、関所を守る小田原藩兵と交戦状態になる。小田原藩は、叛意して、遊撃隊と和睦、20日早朝元箱根の宿舎に居た新政府軍隊士を襲撃した。中井範五郎はこの和議成立を知らず、20日早朝に関門警備の小田原藩兵を労う為卵500個を持ち、江戸より二十四里の、元箱根の葦原久保付近で遊撃隊第三軍和多田貢らに斬られた。よく官軍として理不尽な態度を取ったとの記述を見るが、その男が卵500個を持つだろうか。
新政府軍の軍監三雲為一郎は、中井の死を知り、小田原から海路逃走、小田原藩の藩論急変を新政府軍へ通報した。
中井範五郎 戦死 監軍 小田原法授寺
5月20日新政府軍は小田原藩に軍監中井範五郎殺害と遊撃隊との同盟締結を責め、問罪使として錦旗奉行参謀穂波経度を参謀河田佐久馬、長州・備前・伊勢・我藩を派遣した。藩主大久保忠礼は城を出て菩提寺である本源寺で謹慎。
「小田原藩独力での遊撃隊討伐」を新政府軍は要求。
5月24日に遊撃隊は小田原藩が新政府軍に恭順した事を知る。同日、湯本に入る。
5月25日には三枚橋から入生田、山崎まで砲台を築いた。
5月26日小田原戦争
朝、小田原藩兵は出陣、更に、新政府軍兵も後詰として出陣した。午後1時ごろより戦闘が始まった。当初遊撃隊優勢で、小田原藩兵の死傷も少なくなく四藩は交互の進撃を約束した。しかし山道狭く大勢の進行は困難なので、宮脇縫殿隊と井上静雄隊が正面、近藤類蔵左手、その他各藩散開して激しく砲撃、このとき井上静雄隊長討死した。猛攻で何とか山崎村を陥落させた。梶浦清蔵(雖蛙流初段程度の腕前だったという)は伊庭八郎の右腕を切り落としている。この日は小田原藩がこの地を守り、我藩と長州は風祭村、伊勢・備前は小田原に駐屯した。伊庭隊長が負傷した事によって、更に弱体化した遊撃隊は退却を開始、湯本茶屋へ火を付けて畑宿まで後退した。
5月27日箱根戦争
遊撃対は箱根からの全軍撤退を決定熱海を目指す。殿に残った一小隊を前に小田原藩兵は前日の恐怖のためか前に進まず、新政府軍は猛攻をかけ、一気に蹴散らす。遊撃隊一掃の為に、箱根山に繰り出す。箱根山を四散して背走する遊撃隊は山中各所で多くが討ち取られ、退却した者は、熱海から網代へ移動した後、27日夜出航、翌朝に房州館山へ逃げ延びた。
井上静雄 弾創・深手6/12死 宮脇縫殿助隊 東京光岳院、鳥取市京福寺に葬る
岡本正勝 戦傷6/29死 天野裕治隊 東京光岳院に葬る
佐々木永之丞 弾創・浅手 近藤類藏隊
梶浦清蔵 刀創深手 宮脇縫殿助隊
小田原戦の終わった頃、仙台、米沢、庄内等奥羽二十五藩の反新政府の同盟が成立した。
5月19日新政府は熾人親王を会津征討大総督に任命し、白河口、平潟口、越後口征討の三総督を以って征討軍を編成し、まず白河口と平潟口の攻撃から始まった。鳥取藩は援軍として下参謀河田佐久馬を長とした。
6月29日諸藩の兵を率いて品川をたち平潟に向かい、一部は陸路浜海道を北上した。
7月12日から13日に集結した、平城には、会津、相馬、庄内、仙台、江戸脱出組みなど二千名程度がこもり、味方は薩摩、備前、柳川、佐土原等後巻含めて五千近い人員がいた。
7月13日平城総攻撃に入った。
近藤類蔵隊砲二門 永田秀蔵隊(旧井上静雄隊) 石川豊太郎隊 久山省二隊 古田品蔵隊 山根留次郎隊をもって長橋を攻め、佐分利隊森川隊が応援に駆けつけ二ノ丸に迫ったが抜けなかった。夜になり、命により、一旦引き、我藩は長橋外観音森山中に隠れた。各藩は湯長谷に引いたが薩摩のみ留まり発砲を続け、敵は夜半に城に火をつけ落ちていった。この日の戦いで、佐分利隊が放った弾丸で門櫓は蜂の巣の様になっていた。激戦が伺える。
佐々木庄之助 弾創・戦死 近藤類藏隊
中村佐助 弾創・戦死 古田品藏隊
入江忠三郎 弾創・戦死 永田秀藏隊
出井栄三郎 弾創・戦死 古田品藏隊
松岡弥吉 弾創・戦死 永田秀藏隊
谷口喜六 弾創・戦死 久山省二隊
杉原金吾 弾創・深手2ケ所 杉原金吾隊
西垣利兵衛 弾創8/21死亡 近藤類藏隊 東京光岳院に葬る
若林喜左衛門 弾創浅手 森川久之丞隊
村中甚助 弾創 山根留次郎隊
戸田市三郎 弾創深手 永田秀藏隊 東京光岳院に葬る
順蔵 弾創深手 佐分利鉄次郎隊
山本惣左衛門 弾創 石川豊太郎隊
伊藤熊吉 弾創 石川豊太郎隊
西岡長四郎 弾創深手10/10死 久山省二隊 東京光岳院に葬る
臼井史 弾創浅手 士官
岩田伝左衛門 弾創浅手 森川久之丞隊
山下与助 弾創深手 山根留次郎隊
田中源太郎 弾創深手 山根留次郎隊
宮田栄吉 弾創 武宮甚之進隊
次郎吉 弾創 佐分利鉄次郎隊
梶川嘉兵衛 弾創 石川豊太郎
田中藤五郎 弾創 久山省二隊
山田伊三郎 弾創 久山省二隊
新井兼吉 不明 山国隊
この平の戦闘に勝利を得た政府軍は仙台攻撃に移った。仙台攻撃には政府軍は二手に分かれ、三春から郡山へ向かう一軍と広野から相馬に向かう軍に分かれた。鳥取藩は長州藩兵とともに浜海道を進攻し、参謀河田佐久馬がこの方面の指揮をとったので、この方面での鳥取藩兵が攻撃の中心となり、ために戦死傷老が他藩に比べて多く出たのである。
7月16日小名浜に本営
7月23日亀ヶ崎戦争
九之浜北西5キロに敵兵(相馬)ありとの知らせを受け、兵を分けて急襲撃退した。(市史には記録がない戊辰役戦史による)
7月23日浅見川戦争(敵は彰義隊春日左衛門指揮の旧幕府陸軍、相馬・仙台藩兵戊辰役戦史)
この日夕方七時、浅見川を隔てて、左手田圃に芸州兵が応戦、右手浜側に敵兵来たので山田隊を右に出し、左の山上より砲撃させた。朝になり、中村・大橋・摂津守隊応援来て適塁抜いて広野に進行した。
足立無事介 弾創深手8/27死 使番兼監軍 磐城平性源寺、鳥取市大隣寺に葬る
松浦助三郎 弾創 藤田束隊
磯平 弾創浅手 和田壱岐隊
磯岩益介 弾創深手 佐分利鉄次郎隊
下田源助 弾創 山田槌之助隊
7月24日広野駅進撃戦争(この戦闘に関しては戊辰役戦史未記載)
駅外各所に橋頭堡を造った敵軍と、激しい戦闘を繰り返した。この戦いは白兵戦となったと見え、三人の刀創者が出ていた。
渋谷甚左衛門 刀創深手三ヶ所 渋谷甚左衛門隊
米橋源次郎 刀創浅手三ヶ所 渋谷甚左衛門隊
福地梅右衛門 弾創 中村新之丞隊
芽原平之助 弾創 池田摂津隊
岩越平八 刀創浅手 岩越平八隊
西尾亀三郎 弾創村新之丞隊
三谷弥平次 弾創死 大橋欣弥隊
今嶋源次郎 弾創深手 銃手
7月24日朝漸く広野駅を占領したが、残念ながら九之浜に待機しろと命令があったため、芸州・近藤類蔵隊・古田・大橋・中村隊で守備して残りは引き上げた。
7月25日、26日広野駅戦争
25日早朝敵襲があったが、難なく打ち返している。26日は敵の大逆襲を受けた、駅外の山上に塁を設け、砲撃してくる。地の利を得て、林間より射撃をしてくる。と大変な苦戦であった。しかし援兵の到来、下浅見川全軍・次いで長州岩国勢。是に勢いを得て、敵塁に迫る。一部海手に進む敵を打ち破り、駅右方小丘より発砲されて芸州兵は死傷者が多かった。八つ時に汽船豊安丸が、筑前、岩国の援兵を連れて接岸。直ちに上陸進撃して。敵塁をついに七時攻略した。敵は木戸上町に放火して遁走した。ただこの時の被害も鳥取藩に多く出て、砲隊長、近藤類蔵以下四人の戦死者と三十八名の戦傷者が出ており、このうち三名が病院で死亡している。
近藤類藏 弾創・戦死 近藤類藏隊 久之浜龍光寺、鳥取市玄忠寺に葬る
梶山運八 弾創・戦死 池田相模守隊 久之浜龍光寺に葬る
長本甚助 弾創・戦死 森川久之丞隊 久之浜龍光寺に葬る
甚七 弾創・戦死 池田摂津隊、弾薬夫卒
山根留次郎 弾創 山根留次郎隊
岩田雄之進 弾創 宮脇縫殿助隊
納武次郎 刀創 佐分利九充隊
桐谷清次郎 弾創浅手 近藤類藏隊
河毛勘助 弾創浅手 宮脇縫殿助隊
六浦友也 刀創 宮脇縫殿助隊
横田豊之進 弾創 近藤類藏隊
浅井信輔 弾創浅手 軍事局下役
谷岡奉次郎 弾創 天野裕治隊
中島周次郎 弾創 天野裕治隊
米澤卯三郎 弾創 天野裕治隊
梶川直三郎 弾創浅手 天野裕治隊
井上藤右衛門 刀創浅手 天野裕治隊
竹中勇次郎 弾創深手 森川久之丞隊
高野安兵衛 弾創深手 森川久之丞隊
景山佐平治 弾創浅手 森川久之丞隊
山崎重次郎 弾創・戦死 山根留次郎隊 磐城平性源寺に葬る
村田戴蔵 弾創 山根留次郎隊
箕原庄兵衛 弾創8/24死 永田秀藏隊 磐城平性源寺に葬る
川崎勝蔵 弾創8/28死 森川久之丞隊 磐城平性源寺に葬る
小山惣兵衛 弾創 山根留次郎隊
松本菊(兼)蔵 弾創 堀元九郎隊
仁兵衛 弾創 輜重方夫卒隊
三吉 弾創 輜重方夫卒隊
久山省二 弾創 池田相模守隊
井上左馬助 弾創 石川豊太郎隊
村澤伊八郎 弾創死 石川豊太郎隊 久之浜龍光寺、鳥取市梅翁院に葬る
山本治助 弾創 石川豊太郎隊
川上儀三郎 弾創 久山省二隊
丹田久蔵 弾創 久山省二隊
谷口芳二郎 弾創 久山省二隊
和往伊右衛門 弾創 久山省二隊
中島新次郎 弾創 中島銀平隊
伊藤義蔵 弾創 石川豊太郎隊
石井直衛 弾創深手 池田摂津隊
高橋利之丞 弾創 池田摂津隊
喜代七 弾創 目籠持去卒
若林喜二面門 不明 不明隊
筑波小次郎 弾創 芸州軍監を命じられていたが、敵弾を十以上浴び、一発はわき腹を貫通、伊藤源助が交代する。
*幸田屋考察 戊辰役戦史に芸因の死傷者の多さを理解できない旨の記述がある、広野駅北北東、標高60mラインよりの砲撃を長時間食らった可能性がある。鳥取市史には駅右方小丘より発砲されてとある。距離1`、比高50m砲撃するなら美味しいラインだ。
同日参謀より相馬中村へ進軍の命令があった。
7月28日上手岡村戦争
相馬領熊町へ進攻、恐らく県道35号線に近いラインの間道を松岡、赤木と進み、上手岡村辺りで伏兵を追い、敵を求めて川を渡り戦闘となり、三人の戦傷者を出している。場所が良くわかりません後教示ください。
富山又四郎 弾創 三澤増次郎隊
木原為十郎 弾創 古田品戒隊
岡本豊三郎 弾創 古田品戒隊
7月29日鴻草戦
は新山駅、浪江に進撃し、新山駅に入ると敵は長塚村に火を放って敗走。鴻草までたどり着いたが、先行していた筑前と伊勢の兵が敗走してきたため長州と図り、防衛ラインを決めて一夜の守備に徹した。しかし夜戦で一人の負傷者を出した、場所が良くわかりません後教示ください。
山根梅三郎 弾創9/3死 中村新之丞隊 磐城平性源寺に葬る
8月1日浪江へ駈屯したのち8月7日、中村藩、相馬氏の降伏により中和城(相馬市)に入った。
8月10日より仙台に向かって三派に分かれて北進した。
8月11日椎木口戦争
椎木口には佐分利鉄次郎砲隊中施條砲一門、臼砲一門馬場金吾、西村清五郎、伊丹廉蔵が共に出発、黒木村で長州・筑前・中村・久留米各藩と砲隊と合流して関門手前四丁で砲撃を開始、筑前左扉、我隊右扉を破り、突撃して更に駒峰関門も破った。
田中安藏 弾創深手 佐分利鉄次郎隊
梶川儀兵衛 弾創浅手 馬場金吾隊
徳兵衛 弾創浅手 佐分利鉄次郎隊
浜手原釜戦争に向かったのは、遠藤半太夫砲撃隊、建部・前田・石川の各隊が中村藩を案内に肥後と共に進んだ。敵は胸壁を築いて厳重に守備していたが、肥後と相談の上、銃隊を村外れに配置、砲を海岸岩上に引き上げて砲撃を開始した(松川浦防備のため相馬の砲台があり、北側を攻めるため移動した)。敵は家屋松林等を利用して良く防ぎ、また沼があり攻め入りがたく。一旦西岸に兵を引いて機を見た。駒峰の各口が破れ官軍勝利の方が入ると、敵に動揺退却の兆しあり再度攻め入った。日没後に原釜に陣を張った。
大森嘉吉 弾創即死 石川豊太郎隊 相馬郡洞雲寺に葬る
建部半之丞 弾創浅手 建部半之丞隊
馬場正雄 弾創浅手 建部半之丞隊
堀元九郎 弾創浅手 士官
関屋又之進 弾創浅手 士官
臼井史 弾創浅手 士官
成瀬啓次郎 弾創浅手 鼓長
岡野庄七 弾創浅手 建部半之丞隊
荒竹爾七 弾創浅手 建部半之丞隊
大田清左衛門 弾創9/9死 建部半之丞隊 相馬郡洞雲寺に葬る
牧村平助 弾創9/9死 和田壱岐隊
渡遺書助 弾創浅手 和田壱岐隊
瀧川金太郎 弾創 箕浦太仲隊
阿屈小次郎 弾創深手8/13死 堀元九郎隊 水戸藩帰順兵
宮田紫吉 弾創 武宮甚之進隊
井上左烏之助 弾創 石川豊太郎隊
中村直三郎 弾創 石川豊太郎隊
喜田村文次郎 弾創9/7死 石川豊太郎隊 相馬郡洞雲寺に葬る
若村惣次郎 弾創8/26死 石川豊太郎隊 相馬郡洞雲寺に葬る
衣川清助 弾創 久山省二隊
濱田五郎左衛門 弾創深手8/12死 久山省二隊 相馬郡洞雲寺に葬る
福島文四郎 弾創深手 久山省二隊
岸本庄次郎 弾創 久山省二隊
植原佐兵衛 弾創 久山省二隊
山根卯二郎 弾創9/3死 久山省二隊
納武次郎 深手疵 久山省二隊
谷岡泰次郎 深手疵 久山省二隊
米澤卯三郎 深手疵 久山省二隊
景山佐平太 深手疵 久山省二隊
松村幸三郎 深手疵 久山省二隊
三谷弥平治 深手8/18死亡 大橋関弥隊 磐城平性源寺に葬る
初野口へ向かったのは永田、天野隊であったが戦は無かった。
数日兵を休め交代して初野口を守備した
8月16日駒ケ峰方向に砲声、永田・安住・天野小隊は急進、久留米藩が苦戦するのに変わり敵を20町程追い詰め、同夜駒ケ峰駐屯、
8月17日永田・安住・天野小隊は夜筑前と交代した。死傷なし
同日初野口敵兵来て、駒ケ峰に派兵で寡兵なるを見て攻め立てた。初野の民家を焼きながら敵方攻勢だったが、味方中村より又芸州も駆けつけ敵を旗巻峠に撃退した。
8月20日敵が大挙総攻撃を欠けてきた初野口を守っていたが、正面及び右山方に敵が展開して挟まれそうになる。しかし、味方来援して敵を旗巻峠へ追う。
この日の戦傷者
建部半之丞 浅手 隊長
9月9日四条総督より旗巻峠総攻撃命令
9月10日早朝中村兵を案内、芸州兵の後続で羽黒山背後の間道を進み夜明けに山頂に出た。旗巻関門を側面より襲い旗巻峠を占領している。死傷者無し。
9月15日に仙台藩主伊達慶邦の降伏
9月28日仙台に入った。
11月1日この戦に藩兵を統卒していた和田壱岐は兵をまとめて江戸に引き揚げている。
北陸進攻は6月14日に嘉彰親王が会津征討軍越後口総督に任命され、鳥取藩からは家老荒尾駿河が越後口軍監に命ぜられた。(この時柴捨蔵の雇入れを命じられる)
別に一万石につき三名を徴兵した全97名の殆ど足軽隊員だが、6月5日京に到着徴兵十二番隊と命名され壬生参謀付けとなった。
6月19日京都を出発
6月28日敦賀到着
7月13日越中東岩瀬翌日船に乗り直江津に向け出向、嵐に合い伏木に上陸風待ちする
7月17日陸行に変更
7月20日直江津に到着、筑前の汽船大鵬丸に乗り翌日柏崎に到着
7月22日新発田に向け参謀黒田了介と大鵬丸乗る。途中荒天のため
7月24日佐渡小木港に停泊
7月25日松ヶ崎太夫浜上陸
7月26日名目床新発田降伏
7月27日阿賀川を渡り、本所着、信濃川を挟んで砲撃戦を開始。
7月28日も継続
7月29日新潟戦争
信濃川を渡り、米沢、会津の陣を薩摩、長州、高鍋藩と一緒に新潟を落とす。この日の死傷なし。
8月1日弥彦大野方面に進撃、三根山藩主降伏。
8月6日には新潟地区は平定され、
8月8日より米沢政略に向かっている。
8月10日梨木峠の激戦
新発田より発した藩兵は鼓岡・夏井、と進んだ。梨木峠で激戦となり、は田中長助は即死し、他に一人の戦傷者を出した。上坪穴に駐屯
田中長助 即死 岡村喜兵衛隊
菊田重三郎 薄手 岡村喜兵衛隊
8月11日下関にいたった、斥候で出た小部隊は高巣の敵と交戦、大内淵に放火とある。はなはだ疑問、上関駐屯
8月12日鷹巣・榎木峠戦争
上関より出て鷹巣・榎木峠に戦った。鳥取藩は先鋒となったため四人の戦死者と四人の傷者を出している。沼・片貝村に駐屯
廣田只二郎 即死 岡村喜兵衛隊
岩本佐七郎 即死 岡村喜兵衛隊
中川長次郎 戦死 岡村喜兵衛
櫻木喜十郎 傷8/29死 岡村喜兵衛隊
西谷源助 深手 岡村喜兵衛隊
瀧尾清蔵 深手 岡村喜兵衛隊
井上太兵衛 深手 岡村喜兵衛隊
川上吉右衛門 薄手 岡村喜兵衛隊
そのまま、駐屯を同所に続け
8月28日に至り米沢藩主が降伏を申出て平定している
9月4日米沢入り
10月東京凱旋
軍監荒尾駿河守の動き
7月24日与坂出張の軍監土倉修理介と交代の命をうけ、同夜宮本駅に泊まる。
その日奇襲を持って長岡を奪取されたため西園寺参謀は一騎で宮本駅まで落ちられた。荒尾は急を柏崎へ伝達、越前本多興之助の応援を求めたが、参謀壬生が、将となり越前2小隊を率いて7月26日午後宮本に到着。西園寺、壬生は関原に転進、荒尾は随伴した。同日与坂に出張、長岡藩は、信濃川東岸長岡与坂間に砲塁を築いて、黒津より信濃川を渡渉進撃の様子が伺えるので7月27日早朝尾州・加州・三日月の兵3小隊、砲1門で黒津下流の敵を砲撃した。
7月29日新政府軍は長岡を奪取した。
8月6日富山・小野の兵を率いて三条に転陣
8月10日加賀・与坂・小松・足守・三日月の兵を率いて吉田に転じ
8月12日新潟にいたり
8月14日新発田
8月22日には、総督宮も新発田に入る。
9月1日新発田を出で、西園寺参謀に付属して会津に向かう
9月7日塔寺村に入る
9月22日会津降伏、荒尾は東大手城門の取締りに当たり、受降の際は参謀代を勤めた。
9月29日総督宮の陣、新発田に帰陣
10月13日越後口新政府軍の戦死者招魂祭には祭事掛を勤めた。
10月14日降伏した、酒井忠篤が伺候したので、上使として、宮の命を伝えた
10月15日には東京に向かい、徴兵12番隊と合流
11月14日には入京
11月18日軍監の任を解かれて
12月3日鳥取に戻る
北陸の戦いで死亡した五人の埋葬地が解りません御教示ください
7月頃秋田藩が奥羽同盟の攻撃を受け窮地に陥り、7月14日鳥取藩に一大隊出兵の命令が下った。(兵員輸送のため軍艦を領海に差し向けると明記してある)
体制 驍雄隊 京都警備隊で編成愛洲貞之丞隊長以下30人の御徒大砲隊
松波隊 淀江台場を守る農兵組織 驍雄隊付属
敢撃隊 6月18日編成山本玄蕃隊長、86人の足軽銃卒を一小隊とする四小隊の大隊 右翼と左翼に別れ其々二小隊
以上全450名
7月26日 鳥取城を若殿の見送りを受けて出発(藩主病気)
境港に向けて出発 人員輸送船の手配がうまくいかず、一ヶ月以上待つ
8月4日長岡の敗報を受けて出張先が一旦越後に変更される
9月 1日 美保関に現れた、米国船に頼み境港出発
9月 2日 敦賀で驍雄隊を乗せる
9月 7日 新潟河口に到着 この時再度出張先を秋田応援に変更になる
9月11日 男鹿半島の船川港に到着上陸、同夜脇本駅宿泊、この日以降南下していく
9月12日 先行部隊久保田まで進行 この日の夕方長浜へ進行しろとの命令
9月13日 本体久保田到着 先行部隊は長浜へ向け出発左翼隊長と三番小隊
9月14日 戸島まで進行 この日上ノ山藩降伏、庄内は全軍撤退を決めた
9月15日境村戦争
庄内藩は、前日の全軍撤退を受け、境村で一旦敵を退けその間に退却しようとして新政府軍を攻撃した。
船岡に向けて進行中、境村方面に砲撃音、方向を代え、日没頃境村で戦闘状態に入り庄内兵に肉薄、夜になっても敵の砲撃やまず、背後を突かれて混乱するなど苦戦した。夜明けに敵が退き追撃をするが抵抗激しく死傷者を出し続ける。暗闇の中での戦闘で新政府軍の同士討ちである可能性がある。鳥取市史では、明言していない。
愛洲貞之丞 戦死 驍雄隊長 秋田市全良寺に葬る
内藤弥太郎 戦死 松波隊 秋田市全良寺に葬る
杉内武右衛門 戦死 松波隊 秋田市全良寺に葬る
佐々木定五郎 深手刀疵 松波隊
岡本郡司 深手玉疵 驍雄隊
磯部馬之丞 深手玉疵 驍雄隊
大江利右衛門 深手玉疵 驍雄隊
岸田興市 深手玉疵 鵜沼千賀藏隊
松波徹翁 浅手 松波隊
9月16日上淀川戦争(鉢ノ山)
庄内藩は、亀ヶ崎隊を退却させるために、上淀川南側に陣地を築いて防備していたようだ。
境村より上淀川村へ進む途中探索のため発砲、敵が応戦 この日山形兵が総退却
鳥取藩は、小隊砲2門とあるので、驍雄隊と松波隊がこの方面に向かったと考えられる。
坂本篤藏 深手刀疵 驍雄隊
田中秀蔵 深手玉疵10/20死 松波徹翁隊 秋田市全良寺に葬る
吹野富次郎 深手 松波徹翁隊
9月17日中淀川戦争
三宅重馬隊平尾島村より中淀川にいたり、敵山上に籠る、申より酉に至る間激しく砲撃、敵兵下淀川方面へ退却
別記録では、中淀川付近に敵あるを知り昼頃秋田渋江隊と共に平尾島村を出発、午後四時ごろ中淀川西北側山上に達して山下の亀ヶ崎隊を急襲、敗走させた。
中淀川での戦死者
宮本昌七 即死 三宅重馬隊 秋田市全良寺に葬る
9月15日戸賀澤村戦争
別働隊 右翼隊長井上甚右衛門、四宮郡司隊、平尾島より種澤村への途中戸賀澤村で敵と遭遇
戸賀沢村での負傷者
長谷川保次郎 四宮郡司隊
山口伊右衛門 四宮郡司隊
この頃、庄内藩総退却を開始(この頃9月27日までの資料が少ないです)
9月20日頃、退却する庄内藩、亀田藩を追って、秋田荒川銃隊と先発を勤め、肥後の後援を得ながら亀田に進行
9月23日 庄内藩主、亀田藩主、松嶺藩主降伏したが、兵は抵抗を続けながら後退
9月25日塩越えに新政府軍集結秋田、因幡、肥前、筑前 27日総攻撃を決して
小砂川口肥前3小隊砲4門・秋田荒川隊砲2門・因幡2小隊、女鹿村肥前3小隊・秋田荒川1中隊・筑前1小隊、観音森因幡1小隊砲2門・秋田渋江隊の物頭指揮の1隊と臼砲1門・肥前4小隊・筑前2小隊の三方向に分かれる。(その他予備隊として、秋田岡谷1中隊・同渋江隊の残り・本庄1小隊・肥前6小隊)
9月27日大師堂山戦争
四時 川袋村を出発、左翼隊長羽原元介、三番小隊鵜沼鉄太、驍雄隊は観音森を最初攻撃後、大師堂山下へ奮戦した模様
残りは大師堂山に進撃した模様で、右翼隊長井上甚右衛門肥前砲隊と応じて砲撃に勤めるが傷を負い後死亡。
2006/6/6にかほ市象郷土資料館より、資料提供を頂きました、秋田県側の資料も混乱しているようです。
井上甚右衛門 深手死10/6 右翼隊長 秋田市全良寺に葬る
石井友藏 深手帰陣之上死 四宮郡司隊
佐々木助之進 深手帰陣之上死 四宮郡司隊
石井、佐々木の埋葬地が不明です、ご教示ください。
夜哨兵が元亀田藩池田吉兵衛を捕らえる、庄内隊長安部伝太郎の降伏の書状を持つ
9月28日 4時 大師堂山 降伏 無人だった為旗を立てた
7時 川袋村に帰る
10月1日 百敷村に進出
10月2日 酒田近くの上寺村まで進出羽原元介隊が進出
後本庄に滞陣していたが、10月7日出発し、米沢福島を経て11月2日東京到着、12月2日京都19日鳥取に戻った。
派遣中の病死
本郷藤五郎 3月19日 東京 天野祐治隊
吉見六郎 7月20日 東京 和田壱岐隊
荒井又蔵 9月15日 奥州相馬郡 池田摂津守隊
村松幸三郎 9月29日 奥州相馬郡 天野祐治隊
矢部藤助 10月18日 奥州二本松 中村美嗣隊
大橋開禰 11月26日 東京 小隊司令
前田伝九郎 2月27日 東京 教導小頭
田中荘之進 11月17日 羽州長瀬 松波隊
北小路萬之助 不明 安塚上野 山国隊
高室重藏 8月7日 安塚上野 山国隊
派遣中の刑死
伊藤松之助 2月28日 信州駒籠 宮脇縫殿助隊 飲酒して、抜刀宿舎の主人を脅した、翌日打ち首
鳥取が戦場にならなかった事実を謙虚に受け止め、戦に散った先輩諸氏に頭を垂れたい。
明治2年5月に始まった北海道箱館戦には鳥取藩兵は出陣していない。
因伯洋学史話 森納著、他を元に、鳥羽伏見、戊辰戦争関係の死者をリストアップして数えてみました。
| 区分 |
戦死 |
病死 |
刑死 |
自刃 |
小計 |
| 名主 |
|
|
|
1 |
1 |
| 山国隊 |
5 |
2 |
|
|
7 |
| 松波隊 |
3 |
|
|
|
3 |
| 鳥取藩士 |
53 |
8 |
1 |
|
62 |
| 陪臣 |
2 |
|
|
|
2 |
| 帰順兵 |
10 |
|
|
|
10 |
| 雑夫 |
3 |
|
|
|
3 |
| 小計 |
76 |
10 |
1 |
1 |
88 |
現時点では、死者88人、内病死10人、軍律を守れず首をはねられたもの1人、帰順兵は、各隊長の意思で自分の家臣として雇い入れ、陪臣に分類すべきですが、カウントできるため死亡比率と帰順兵の立場を考えて参考になればと掲載する。又所属では山国隊7人、松波隊3人。負傷者134人、内山国隊4人、松波隊2人ということで、死者に関しては、病死、刑死、及び他所属を除いて重複を考えると鳥取藩士の戦死者は53人になります。負傷者は128人、軽症を負って後に復帰して、死亡若しくは再度の負傷された方もありますので重複を見ます。
当時の藩医の処置能力では、新式の銃の破壊力に対応できないもののようで、かかることが出来た医療により大きく生き死にを左右されたようです。